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酒販免許前夜
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ウイスキーの日本化は
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ビールこそが
  「20世紀の日本の酒」


自由度の高さと
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  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
ビールこそが「20世紀の日本の酒」
日本のビール技術の発達
橋本 第三ステージは昭和30年から昭和50年くらいまででしょうね。この間に、日本のビール技術は大躍進をしている。ドイツのビール会社は歴史は古いが規模が非常に小さく、五万リットルも造れば大会社。日本ではアメリカから大量生産の技術をいれて生産量を増やした。
日本のビール科学というのはすごい。始めたのは昭和30年頃からでしょうが、それからの40年の間に世界のトップレベルになった。めぼしい研究はみんな日本製です。
−めぼしい研究というのは?
橋本 たとえば、ビールの熟成期間。かつてはラガーリングを三カ月くらいしていて、長いほうがよいと言っていたのが、どういうメカニズムでビールが熟成するか研究した結果、20日くらいでよいというのがわかった。もっと要領よくやるなら10日でよい。10日でやっているビール会社はないけれど、やろうと思えば10日くらいでできます。
−それでもラガーリングの期間を日本のビールメーカーは、昔からの30日、40日取ってらっしゃる。
橋本 日本のお客さんは「手作り」とか「生」とか「手間ひまかけて」というのがお好きなんです。そのイメージを壊してはいけないということもありますし、もともとひと月くらいは熟成させるということでシステム化した設備があるのだから無理することはない、ということです。
−海外ではかなり短縮しているんですか?
橋本 そうです。バイオリアクターによって、ラガーリングを短縮する技術を開発したキリンビールがいちばん熟成期間が長い(笑)。
第三のステージは、ビールが国民、市民の酒になった時期です。生産量が大きくなり、製造技術、物流の技術改革が起こった。戦前、ビール工場は業界で13しかなかったけれど、昭和30年代に10工場も増え、40年代になったらさらに増えて、最盛期は37工場になった。ビールは新しいほどよいのだから、大消費地に近いところへ新しい工場を建てていく。当時としてはまことに優れた流通システムです。

モノカルチャーから多品種化へ
橋本 第四ステージの最初は昭和50年、石油ショックの時期なんです。ここで戦後うなぎ昇りに伸びて、昭和50年に400万リットルになったビール需要が2、3年足踏みする。この時に、初めてビール会社は何とかせないかん、というので多品種化を進めました。
これのはしりは、昭和51年の日本最初のプレミアムビール「マインブロイ」。昭和55年に日本最初のライトビール「キリンライト」。それまでは、黒ビールとスタウトが0.1%あったのを除いて各社ワンブランドだった。全部ピルセンタイプで、ビールモノカルチャーの、特殊な時代でした。
なぜこうなったかというと、戦後造ってきたビールの品質が非常によかったということもあるし、需要がどんどん伸びていくら造っても足りないのでたくさんのブランドを作る必要はない。それでお客さんも満足していただいていたわけです。
この時期からビールモノカルチャーが崩れ始め、生ビール戦争が始まる。生ビールというのはサントリーさんが先頭を切って昭和42年に「サントリー純生」を出しましたが、そんなに大きなインパクトではなかった。だけど昭和49年にアサヒさんが「アサヒ本生」を出して、サッポロさんも「黒生」を昭和52年に出して、昭和54年くらいになるとミニ樽、ビヤ樽が出る。中身は変わりはしないからビール容器戦争と笑われた。しかしこれによって、昭和55年には生ビールのシェアが全ビールの20%になりました。
−それは樽も含んでですか?
橋本 そうそう。もともとは樽なんて微々たるものだったんです。ただ、これがきっかけとなって、意外にビールの需要が復活し、400万リットルからまた伸び出した。昭和60年代になると急に新製品ラッシュになる。昭和61年に「モルツ」が出た。キリンも「ハートランド」を出す。続いて昭和62年に怪物、「スーパードライ」が出て初年度で1100万ケースのヒットになった。右にならえで「一番搾り」が出たり、「吟仕込み」とかいろいろ出ました。今日では常時50ブランドくらいあります。これでどうなったかというと、昭和61年に500万リットルだったビールが15年で725万リットルになったのです。

「ポーズ・ドリンク」化するビール
橋本 この時期はビール多品種化時代と言ってるけれど、この間にビールの性格がものすごく変わっている。つまり、それまで20%だった生が、100%近くになった。パスツリゼーションをしないビールをビンや缶に詰めて売る技術を、大量生産技術に磨き上げたのは日本のオリジナルです。これが、現在の流通のフレッシュローテーションとか鮮度管理とかに繋がってきた。
そして缶ビールがすごい。昭和55年には10%しかなかったのが、今日55%になり、ビンビールが30%、樽ビールが15%くらいになった。それから女性が非常によく飲むようになった。夏冬の需要差がなくなってきた。最盛期のビールの需要は頭打ちになり、秋冬が伸びている。
日本人はアルコール分解酵素を作る遺伝子の関係で、お酒に弱いということもあるんだけれど、全酒類の消費量はアルコールに直してだいたい一人年間7リットルで、20年くらい前から変わらない。その変わらないパイのなかで、食い合いをしている。
傾向としては、アルコールの軽い酒へ、軽い酒へと世界的に移っている。だから、14%もある日本酒から5%のビールへとなる。この変化の根底は、「酒」が酔うために飲むものではなくなったということです。
戦後、昭和30年代の調査を見ると、日本のビールは70%くらいは家庭で晩酌として飲まれていた。それがもう15年くらい前から晩酌で消費されるビールは40%くらいになった。残りはゴルフのあと、日曜にジムに行って、ナイターをテレビで見ながら、そういう時に飲む。酔うために飲むというのとは違い、気分転換のために飲むようになった。これは業界用語で「ポーズ・ドリンク」と言う。ポーズというのは「間」ということです。仕事が一区切り済んだからとか、これからどっか行くけれどちょっとリフレッシュしようとか、そういう感じですね。
−ポーズ・ドリンクというのは、いつ頃から言われるようになったんですか?
橋本 もう2、30年前からだが、日本ではあんまり言われない。ポーズ・ドリンクの代表的なものはコーヒー、紅茶、お茶もそうかもしれない。こういうふうになってくれば、コクのある苦いビールは好まれず、飲みやすくて軽くてキレのあるビールが売れる。
そうなってくると、だんだんビールがモノでなくなり、ファンクション本位になるわけです。飲んで楽しい、話題になる、という時代になってくると、ネーミングも大切になる。「スーパードライ」なんていいじゃない。イメージ商品化してくるわけだから二番煎じはだめになり、トッププランドしか売れない。
1995年に発泡酒「スーパーホップス」が出た。発泡酒は日本のビール酒税が世界一高いので、これの適用を回避しようとサントリーさんが考えた節税商品からスタートしたが、技術は日本のオリジナルです。ビール純粋令を守り、麦芽100%と言ってるドイツではできない。
ドライビールはアメリカのラガービールをモデルにして、発酵度を上げたものです。アメリカのラガービールは日本のラガービールの先を行っていて、副原料が多くて苦味がうんと弱く10単位くらい。それをさらに副原料を多くして発酵度を上げたのが「スーパードライ」です。ドライという新しいビールのカテゴリーを作った日本のオリジナル・ビールです。今や日本のビールの43%を占めるんだから、世界生産料の3%か2%はある。ピルスナーが1842年にできて以来の数少ない大ヒットは、いちばんがアメリカのライトビールで、今やアメリカのビールの三分の一を占める。その次は日本のドライビールだと思う。

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