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清酒の量産と品質

近代酒類流通の
  源流をたどる


京都老舗酒販店の
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東京下町の小売酒屋
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酒販免許前夜
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 甲類焼酎


ウイスキーの日本化は
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ビールこそが
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自由度の高さと
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  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
近代酒類流通の源流をたどる-下り酒問屋の盛衰
「20世紀の酒文化」研究は今回から酒類流通を対象にした新しいシリーズに入る。シリーズの最初に今日の酒類流通のもととなった下り酒問屋の盛衰をたどっておきたい。戦前に下り酒問屋に勤務した古老へのインタビューを交えつつ、下り酒問屋が果たした役割と衰退した社会背景、それにともなう行政やメーカーの動きを整理していこう。

日本で最初の酒類流通システム
近世中期には人口が100万人を超え世界有数の都市であった江戸は、物資の多くを上方などの外部に依存する大消費地であった。酒の消費量(入津量)は年間50〜80万樽にのぼり、その7〜9割は下り酒(大坂から送られる関西の酒)、残りが地廻りの酒(関八州産の酒)であったといわれる。下り酒は初期には菱垣廻船で木綿、油、醤油などと一緒に送られたが、量の拡大にともない酒だけを積荷とする樽廻船が登場する。これを荷受けして捌く問屋が江戸の新川、茅場町界隈に輩出し、延宝八年(1680)には下り酒問屋寄合が結成される。その後、元禄七年(1694)には江戸十組問屋(酒・塩・薬種・綿・釘・紙など十業種の問屋仲間)が成立するが、元禄一六年(1703)には酒問屋は126軒と記録されており、さらに小売酒屋とのあいだに介在する酒仲買が42軒あったという。
これらのことから、当時、すでに酒造家→江戸酒問屋→酒仲買→小売酒屋という下り酒の販売ルートが確立していたと見ることができる。こうした流通は江戸以外ではほとんど見られず、酒造家が卸を兼ねるのが一般的であった。江戸における下り酒問屋の流通システムを、今日の酒類流通の源流とする理由はここにある。

下り酒問屋の成立
下り酒問屋の多くは上方の酒造家の直売から出発した。酒造家は江戸への積み出し量の増大とともに江戸店を設けて、自社の酒を一手に販売させた。それが、のちに経営的に独立したり、幕府の減醸令により本店の酒だけでは経営が難しくなったりして、他の酒造家の酒を扱うようになっていく。
当時の取引関係は酒造家が問屋に販売を委ねる委託販売であった。酒造家は指値をせず、問屋は定期の期日に酒価の見積り送金をし、一年間の総勘定は新酒と古酒の売り捌き区分の時期におこなわれていた。問屋の口銭は通常七分で、荷主である酒造家は仕切書によって初めて売買価格を確認するにとどまった。
また、輸送中、あるいは販売中に生じた酒の変敗などによる損失は、すべて酒造家の負担であった。さらに商標も問屋ごとに異なるものが使われていた。 このように酒造家に対して問屋が優位な取引が成立したのは、酒問屋が酒造家の江戸店として出発したことが大きな理由であったとされる。自社の出先機関が販売するのであるから、移動中・販売中のリスクは荷主(本社)が負い、また相場に合わせて販売されたものが、そのまま受け入れられた。ただし、初期には問屋数も多く酒造家が問屋の選択権をもっていたため、酒造家は自主性を発揮することができたといわれる。これが決定的に変わり、問屋の優位が確立するのは文化六年(1809)の問屋株の公認である。問屋株は38に固定され、酒造家の問屋の選択権は極めて狭められカウンターチャネルを失うことになったのである。

江戸の下り酒を独占
ここに至るまでには問屋どうしの激しい競争と幕府による規制があった。競争の激しさは、江戸十組問屋が成立した元禄期に126軒あった酒問屋が、およそ30年後の元文二年(1737)には72に、さらに天明八年(1788)には52に減少し、文化六年には38となっていることからうかがわれる。 この間、天明六年(1786)には米不足からほぼ30年ぶりに半石造りの減醸令が出され、翌年にはさらに三分の一造りとなった。そのため酒の生産量(流通量)が一気に減り、江戸酒問屋は危機に直面する。受荷の競争は極めて激しくなり共倒れになりかねない。そこで問屋どうしが歩みより、@問屋による酒の格付け A問屋の相談による価格調整 B各問屋の受荷高を一定にする などを酒造家に申し入れた。当然、酒造家は反発するが、酒問屋は毎年1500両もの冥加金(江戸十組問屋のなかで最高額)を上納し、幕府に営業特権を認めさせる(問屋株の公認)のである。また、この過程で享保年間(1720年代)頃に地廻り酒問屋が下り酒問屋と明確に区別されるようになった。以降、下り酒問屋は江戸の酒を独占し隆盛を極めることになる。

下り酒問屋の営業スタイル
下り酒問屋での営業は次のようにおこなわれた(『東京酒問屋沿革史』)。 問屋では店主(出店主)、売手(販売主任)、売手脇(販売補佐)、蔵前(倉庫主任)などの職制があった。取引ロットは最低五樽(二駄片馬)で、最低単位での仕入れしかない者は二合半屋こながらやと揶揄された。売手は懸日かけび(毎月7、8、13、14、20、21と月末の3日間)に重要な得意先を廻り(同一の得意先に月四回)、決済は二カ月に一度であった。懸日の翌日が出日で、得意先の多くが酒問屋に買い出しに来る日となっていた。年末や春先には、来客ごとに酒肴が用意され酒を飲みながらの商談となる。売手は目指す相手以外にはわからぬように算盤を示していく。
こうした商売は昭和初期まで続いていた。当時、下り酒問屋ではたらいた経験をもつ大川登氏(仮名)は、当時の様子を次のように語る。
「売手というのは凄かったですよ。この人が酒の相場からなにから全部つけるんです。売手脇とか、その下の連中は、それをとにかく高く売ってくればいい。
売手や売手脇は、『掛け取り』といって集金に行ったり、注文をいただきに行ったりしたときは洋服を着ますけれど、店にいるときは着物で売り場に座ってました。お客様がいらっしゃるとお相手してきき酒したり、お酒を飲んだり、あるいは将棋や碁を指したりして商談するんです。冬になるとアンコウ鍋なんか出して接待したりしてね。新川にはそういう仕出屋がいっぱいありました。そうしている間、われわれ下の者は匂いだけ嗅がされるわけです(笑)。早くああなりてぇなと思うけど、みんな辞めないから上が死ななきゃ、なかなかああいうところに座れない。
得意先はみんな仲買でした。五樽以下は売らなかったですから、ちっちゃいところには売っていませんでした。
銘柄は問屋ごとに違いました。蔵元がこの問屋にはこの銘柄、あっちの問屋にはこっちというふうに問屋ごとに変えていた。本印には等級をあらわす小印がありました。蔵元は問屋の数が限られてましたから、扱い銘柄数はそんなに多くありません。
それを問屋は仲買以外には売りません。下り酒問屋は自分の商標(手印)で販売しました。小売りでは、量り売りで小分けしますから生一本で売ったり、いろんな酒を混ぜて酒屋正宗と称して商売されたと聞いています」

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