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清酒の量産と品質

近代酒類流通の
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酒販免許前夜
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宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
近代酒類流通の源流をたどる-下り酒問屋の盛衰
倉庫を仕切る蔵前
「倉庫を担当する蔵前も技術がありました。
どこの倉庫にどんな酒があるか頭の中に全部入っているんです。新酒の時期ともなると古酒の売り捌きに力が入ります。蔵前がそれを上手に差配します。
それから、彼らは樽にどれくらいの酒が入っているか、中味を見極める勘がありました。
当時は樽詰でしたからどれだけ入っているか素人にはわかりません。蔵前は竹瓮(たつぼう)(樽にかかっている太い縄)をもって樽を揺らして、ジャブジャブという音で酒の減りを掴んだものです。揺らしたときに、樽の鏡(天板)のどのへんに酒が当たるかでわかるらしいですね。うるさいお得意さんには、自分でそれをやる人もいまして、そういう方が来ると蔵前は樽をグルグル回して酒を先に揺らしてしまう。そうすると酒がいっぱい入っているときと同じ当たりになるそうです。もっと細かい方は、カンカン(秤のこと)かけていく人もいました。
蔵前は力も強かったですね。樽は薦と縄を加えて二一貫伍〇〇匁(約80kg )があります。当時はフォークリフトなんかありませんから、それを素手で動かします。力が強くなければできません。それで酒問屋からは力士になった者がずいぶんいましたし、引退して問屋に来る者もいました。
酒の積み下ろしのときには、『樽ころ』と呼ばれた酒好きの若い衆が臨時雇いで入りました。どこかの問屋に荷が入ると聞くと、手配師が彼らを集めてきて舟から荷降ろしさせる。大きい船で品川沖あたりまで運ばれてきた酒は、問屋の舟に積み替えられて満ち潮とともに大川(隅田川)を上っていく。四つ木橋あたりまで行ったらしいですよ。それで引き潮の時にすーっと新川に下ってくる。すぐに『歩み』(歩み板、タラップ)をかけても水位が下がっていて急なんで、上げ潮まで待っていて、歩みが上がってきたらサッササッサと揚げたものです。樽ころには時には悪さをするのもいまして、こっそり錐で穴をあけて内緒で飲んでたりね。
戦時統制の前まではずっとこんなでした。商品はぜんぶ樽で、ほとんどが舟で運ばれてきました。一升瓶もビールも醤油も扱わないし、地廻りの酒もやらない」

酒問屋の町「新川」の風景
大川氏の話を続ける。氏によれば下り酒問屋では丁稚から始まる年功序列の徒弟制度であったが、昭和初期には大学に通わせて商売に必要な知識を身につけさせたという。また、新川界隈には酒問屋にはたらく者たちが醸す独特の雰囲気があったという。 「下り酒問屋は徒弟制度で丁稚からだんだんに上がっていったもんですが、私がいた昭和の初めの頃には商売に必要な勉強をきちんとさせるようになっていまして、主人が若い衆を夜間大学に通わせていました。関東大震災前までの下り酒問屋では主人はあまり実務にかかわらず、支配人が取り仕切って『今期はこれだけの利益がございました。どうぞお使いください』っていう旦那衆だったようです。
でも、この頃になると教育をつけて優秀な人材を育てないと、さすがに難しいことに気がついたんじゃないでしょうか。
市電の新川一丁目の停留所で降りると、ぷーんと酒の匂いがして、酒の町という雰囲気がしたもんです。酒問屋やその関連の仕事をする人が新川界隈にはいっぱい住んでいましたし、その人たち用の床屋から履物屋までなんでもありました。普通の人の家なんかひとつもないんですよ。遊びは蒟蒻島(こんにゃくじま)芸者。深川へ行くと辰巳芸者ですが、新川は蒟蒻島芸者。
花柳界、待合がすぐそばにあって、だから新川には酒問屋ではたらく筋骨隆々の男たちと艶っぽい芸者衆ばかり、素人の女の人なんかは通れませんでしたよ(笑)。新内流しなんかも来ましたねえ。そういうのは全部戦争で、伝わらないで変わっちゃいました」

明治期の下り酒問屋の隆盛
下り酒の流通を独占し隆盛を極めた下り酒問屋であったが、明治末期から大正期にかけて次第にその地位を低下させていく。その経緯をおおまかに抑えておこう。
明治期になると新政府により各藩まちまちであった酒造政策が統一され、酒造株制度が廃止される。明治四年(1871)には一定の免許料さえ支払えば自由に酒造業に参入できることになり、当時、最大の産業であった酒造業に進出する者が各地に輩出する。彼らが最大の消費地であった東京に進出を試みる一方で、かつての江戸積み酒造家には全国に販路を求める動きが出てくる。
これが江戸(東京)の酒の流通を支配した下り酒問屋の地位を揺るがす伏線のひとつとなった。灘五郷の東京積みの構成比は明治14年(1881)には八割を超えていたが、明治35年(1902)には五割にまで低下する。この間、東京向けの石数は年によって上下はあるもののほとんど変わっていない。
灘の酒造家は東京市場への依存度を低下させ、それは下り酒問屋への依存度を相対的に下げることになった。
下り酒問屋は株仲間が廃止され困難な立場におかれることになったが、明治九年(1876)に問屋鑑札が付与され、翌10年(1877)には地廻り酒問屋にも問屋鑑札が付与された。酒問屋は小売りと明確に区別されるようになったわけである。
これに先立ち下り酒問屋は東京酒問屋組(後に組合として認可)を組織し、みずからを「諸国醸造元より直受販売するもので、仲買に類似することなく営業する(現在でいう大卸に特化し、小売りはしない)」と規定する。地廻り酒問屋も東京酒類問屋組合を組織し、「江戸期より関八州の酒を扱い、兼ねて下り酒の仲買をなしつつあるものの団体(ただし明治40年(1907)以降一部に下り酒を直受するものが出る)」と規定する。
なお、下り酒の取引は明治期以降も、委託販売が引き継がれ、問屋に有利な取引が続く。そして下り酒問屋は日清・日露の両戦役前後の好況期にその最盛期を迎え、資本を蓄積した者のなかには銀行業に進出する者も出る。
これを委託販売制度の最盛期と見ることもできよう。

新興勢力の登場と新システム
一方で、灘の酒造家には消費社会の浮上とともにさらに大規模化する者が出てくる。明治7年(1874)には全国の清酒生産量に占める兵庫県の割合は8%弱にとどまっていたが、大正9年(1920)には25%を占めるまでになった。灘五郷の同年の一酒造家(営業人)あたりの造石高はおよそ4300石で明治初期の四倍近い規模になり、反対に酒造家(営業人)の数は半減している。酒造家にも優勝劣敗があり、上位集中が確実に進んでいたのである。
また、ビールや洋酒が少しずつ市場を広げ、これらを扱う地廻り酒問屋や薬種問屋が酒類の新しいチャネルとして力を蓄えていく。そして、大正期から急速に普及する瓶詰め清酒がこのチャネルを中心に流通するようになって、下り酒問屋はいよいよ地位の低下を余儀なくされる。
この新しく浮上しつつあった酒類チャネルは、従来の委託販売とは異なるシステムをもっていた。今日まで続く特約システムである。
この特徴は、メーカーが問屋に対して対等もしくは優位な位置を占めていることにある。
特約システムでは、メーカーの商標で完全にパッケージされた商品が流通する。価格もメーカーが指値し、流通はそれを基準に販売する。最終ユーザーに届くまでの商品の品質をメーカーが掌握し商標で保証したうえ、価格を決めていくという点で、委託販売システムとは大きく異なる。

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