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過去記事一覧

清酒の量産と品質

近代酒類流通の
  源流をたどる


京都老舗酒販店の
  明治・大正・昭和


東京下町の小売酒屋
 激動の昭和史


酒販免許前夜
 浪速の酒屋


食の洋風化と
  ワインの和風化


20世紀を象徴する酒
 甲類焼酎


ウイスキーの日本化は
  いかに進められたか


ビールこそが
  「20世紀の日本の酒」


自由度の高さと
  風土性の豊かさ
  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
近代酒類流通の源流をたどる-下り酒問屋の盛衰
強まる酒造家の力
前述のように特約システムを採り入れたのは、それまでの酒類流通のアウトサイダーであった地廻り酒問屋や薬種問屋あるいは醤油問屋などであった。現在、酒類食品卸として 最大規模を誇る国分もそのひとつである。
こうした新勢力の台頭と呼応するように、明治末期には灘の酒造家にも地廻り酒問屋と直接取引する者が出たり、大正初期には東京に支店を設けて直接販売に乗り出す者が続出する。そして、大正12年(1923)の関東大震災とその後の恐慌で、下り酒問屋は壊滅的な危機を迎えることになる。
震災前の取引業務を完了できない者もあらわれ、酒造家と問屋との力関係の変化はさらに進んだ。大正13年(1924)には灘の酒造家の直営店九店が甲東会を結成し、酒造家があからさまに従来の取引の枠を超えていく。酒造家は現金取引で自社の酒を有利に販売し、景品や招待旅行などの特典をつけた販売競争を繰り広げていくが、下り酒問屋にはすでにそれをコントロールする力はなかった。
そのようななかで昭和2年(1927)に金融恐慌がおこり、下り酒問屋系の中沢銀行、八十四銀行、中井銀行などが破綻する。下り酒問屋の経営に重ねて打撃をあたえ、古くからの名門問屋にも廃業する者が出た。

関東大震災と下り酒問屋
大川氏は、下り酒問屋が力を失っていった
時代を次のように話す。

「私が奉公する前でしたから関東大震災のときの様子は聞いた話になりますが、あれで下り酒問屋はものすごい打撃を受けました。それまでは、酒問屋は大変な力をもっていたんだそうです。当時は今と違って、銀行と当座取引をするということはなかなか難しかったそうですが、それよりも酒問屋と取引するほうがもっと難しかったと言います。
銀行をやった問屋もありましたが、酒造家への支払いは年一回で、仲買との決済は二カ月に一回ですからお金も貯まりますよね。しかも、口銭の率だけは決まっていて、仕切りは全部任されていたんですから。
それが大正12年に丸焼けになって急に信用がなくなった。酒も売掛帳も住まいも何もかも焼けてしまった。たいへんな被害でした。でも、実際にはそれ以前から力は落ちてきていたんでしょうね。昔からの流れで信用があるように見えましたが、官許で守られていたのをいいことに店主は贅沢三昧だったそうですから、蔵元にすれば『東京の酒問屋なんかに任せておけない』という思いがあったんじゃないでしょうか。それで直売したり下り酒の問屋じゃないところに売らせるようになっていたわけで、『うっかりやってたら共倒れになっちまう』という気持ちをもっていたんでしょう。実際、共倒れになったところもありました。
下り酒問屋は震災のあと郊外に住まいを移したり、二度と同じ轍を踏むまいと頑丈な金庫をつくって商売を再開する者がありました。
そこに、売掛帳とか貴重な帳面とかしまって、火事があっても大丈夫なように備えたんでしょうね。それで昭和20年(1945)の三月に戦災です。また、焼け野原になった。その頃のことは自分もいましたから覚えていますが、焼け野原のなかに金庫だけが残ってました。でも戦時体制で統制になってたから何にも中に入っていない。皮肉なもんですねえ。
こんどは壊すのに大骨折ってよけいなお金かかっちゃった」

顧客と商品を同時に失う
新川大神宮の石灯籠 「震災で下り酒問屋は力を失ったと言われますが、ダメを押したのは戦時体制だったと思います。国家総動員法が昭和17年(1942)にできて、酒問屋は商売を全部政府に召し上げられました。配給会社が各都道府県にできて、酒問屋はその会社の株券を持たされ、そこから配当をもらうというかたちになりました。営業権が全部株券に変わったわけです。
ところが、戦後どこの配給会社も全部潰れちゃって、株券が紙になってしまった。ご破算ですよ。
そのあと統制が解除されて商売を復活していくわけですが、下り酒問屋は大卸でしたから、小売りの酒屋さんと取引してなかった。だから、ご破算になったらお得意さんがなくなっちゃ った。ほかの問屋さんはみんな酒屋さんと取引していたからまだよかったんだろうけれど、下り酒問屋はなくなっちゃった。
商品も樽から瓶に、ビールなんかも扱うように変わった。それで消えるのが加速したと思います。震災で信用がなくなって、統制から開放されたらお客様がいなくなっちゃって、商売も変わっちゃった。
それから、下り酒問屋というのは戦前は地方酒は売らなかったでしょう。灘ものだけしかやらなかった。だから戦後、地方へ酒を買いに行ったって相手にしてくれませんよ。
『なんだ。こっちが売って欲しかったときに威張ってやがったじゃねえか』ということで、集荷量は少ないし、売り先はなくなっちゃったし…。ただ、酒類の消費だけは増えていましたから、酒さえあれば売れた時代でした。
だから下り酒問屋もいくつかは残ることができたんだと思います。
新川には今も新川大神宮がありますが、正面に建っている石灯籠は昭和一七年に建てたものです。酒商業協同組合が、長い長い歴史は国策にしたがいこれでストップだという記念として、建てて残したんですよ」



今日の酒類流通の原形となった下り酒問屋の盛衰を駆け足で眺めてきた。評論家的に見れば、製造段階の技術革新や社会および制度の変化に適応できなかったために、下り酒問屋は衰退の道をたどらなければならなかったということになろう。だが、そこには語り尽くせぬほどの人生が積み重なり、灘酒造業を関八州に広め、酒類産業全体の発展の礎となったことは紛れもない事実である。
たくさんの下り酒問屋が消えていった。けれども、そこで育った少なからぬ者たちが他の酒類企業に身を転じ、多くの人材を輩出したことも忘れてはなるまい。時代に翻弄されつつも懸命に生きた先人たちに敬意を表して、この稿を終わることにしよう。

【参考文献】
東京酒問屋統制商業組合『東京酒問屋沿革史』昭和18年
柚木学『酒造りの歴史』昭和62年・雄山閣出版
西宮酒造株式会社『西宮酒造100年史』 平成元年
加護野忠男・石井淳蔵編著『伝統と革新−酒類産業におけるビジネスシステムの変貌』 1991年・千倉書房
高木藤夫・高木文雄・沢和哉共編『酒蔵の町・新川ものがたり』 1991年・清文社
大関株式会社『大関二百八十年史』 平成8年
小西酒造株式会社『伊丹酒造業と小西家』 平成5年
月桂冠株式会社『月桂冠三百六十年史』 平成11年

2月刊酒文化 2001 年 2 月

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