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過去記事一覧

清酒の量産と品質

近代酒類流通の
  源流をたどる


京都老舗酒販店の
  明治・大正・昭和


東京下町の小売酒屋
 激動の昭和史


酒販免許前夜
 浪速の酒屋


食の洋風化と
  ワインの和風化


20世紀を象徴する酒
 甲類焼酎


ウイスキーの日本化は
  いかに進められたか


ビールこそが
  「20世紀の日本の酒」


自由度の高さと
  風土性の豊かさ
  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
清酒の文明化と文化性の再構築
「20世紀の酒文化」研究の一環として、各酒類を代表するメーカーへのインタビューを行う。自らが醸した酒は、今世紀、どのような価値をもたらしたのかを振り返っていただく。
各社のお考えをうかがいながら、20世紀の酒文化への理解を深めていきたい。第一回目は清酒メーカーである月桂冠株式会社。語り手は栗山一秀氏(同社特別顧問)である。


外来の酒による酒文化の変貌
−本日は、清酒にとって20世紀はどんな時代であったか、そして清酒がこの世紀にどのような価値を創り出してきたのかということについて、清酒のトップメーカーである御社のご意見をうかがいたいと思います。
栗山 そのテーマを、酒の存在価値とそれに対する価値観が時代とともにどう変わったかということと捉えてお話しましょう。
私が酒の業界に入ったのはちょうど50年前。当時、一次会で飲むのは日本酒、戦前、すでに市民権を得ていたビールさえ二次会で飲むのが普通、ウイスキーは三次会という時代だったようです。
その後、ウイスキーのボトルキープが一世を風靡、地方の寿司屋にまで並ぶようになりました。しかし、これも、ようやく沈静化し、つぎに、焼酎ブームが起こった。それまで、焼酎は労働者の飲むものだとか、九州の地方酒だといわれていた。昔、鹿児島では、お祭と結婚式には必ず清酒が出てきたが、常日頃は焼酎しか飲めなかったということでした。それがこのブームによって、これまでのことには全くこだわりのない若い人や都会の人々に普及するようになったのです。
大昔から日本では、米は農民にとっては食べるものでなく、汗水垂らして作り、税として献上するものだったのです。それだからこそ、米の酒・清酒はハレの飲みもの、非常なステイタスシンボルでした。ところが今は、米が余って減反減反で、「米の酒」の価値観も変わらざるを得なくなったといえるでしょう。これも時代の流れです。
−平等と豊かさを目指した時代だから、酒でも従来の上下の構造を壊そうとする動きがあったということでしょうか?
栗山 そうともいえますが、むしろ流通経済の発達でいろいろなものが、すごいスピードで動くようになったことが要因でしょう。今世紀の大きな流れは、その前半において、人々があこがれる西欧の文化がどんどん入ってくるようになったということです。そうした潮流のなかで「外来の酒」によって「日本の酒文化」が大きく変貌してゆく下地が形成され、それが、今世紀後半の戦後50年の間に急速に、現実のものとなっていったと思われます。とくに、最近のワインブームは「女性も気楽に飲める」というムードを作ったといえます。
これに似た現象は、既に江戸期にもあったのです。上方(カミガタ)から江戸に送られる酒があらわれ、その洗練された品質によって、当時の江戸の人々が抱いていた「上方のすべての文物への憧れ」を大いに刺戟したのでした。「上方にはとびっきりの上等がある」との思いを「下り酒」によってますます強めていったのです。
そうした人々の想いは、明治になると、舶来文化へのあこがれに変わっていきました。これもひとつの時代の要請で、その流れはせき止められなかった。

時代が要請した技術革新
−では、清酒にはどんな時代の要請があったとお考えですか。
栗山 たとえば、今世紀初め、日本につくられ始めたビール工場を酒造関係者たちが見学して驚いた。大変なカルチャーショックを受けたようです。
米と麦の違いこそあれ、同じ「穀物の酒」なのに、ビールは年中造られているではないか。しかもそれは、酒蔵全体を冷房する装置がその鍵を握っているらしいということを知った。酒造業を「近代化」させるためには、何としてもビールと同じように「四季醸造」を行う必要があるとの論が澎湃(ほうはい)として起こりました。これもまた無理からぬことだったと思います。
早速、和歌山の溝端久太郎という人などが私費を投じて試みていますが、結局、それらはみな時期尚早だったため、消えてしまいます。当時の技術レベルで単に部屋を冷房しただけでは無理だったのです。こうした技術のレベルが上がるのに、その後何十年という月日がかかりました。
今世紀後半、戦後の復興が軌道にのり始めた昭和30年代、日本の産業構造も大きく変容、それと共に、江戸時代以来酒の生産をになってきた季節労働の杜氏制度も、農漁村の過疎化、産業の地方進出などによって、その基盤をゆるがされ始め、杜氏・蔵人の数も次第に減少し始めました。そこで当社は「今こそ最新の技術を駆使し、社員による四季醸造体制を確立すべし」との決意を固めたのでした。業界の先陣を切って、そのシステムの開発にとりくみ、ついに昭和36年、これを完成させたのです。これこそ時代の要請にいち早く応えたものです。21世紀に予想される変革とその対応にとっても、これは大きな示唆になるのではないかと思っています。

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