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過去記事一覧

清酒の量産と品質

近代酒類流通の
  源流をたどる


京都老舗酒販店の
  明治・大正・昭和


東京下町の小売酒屋
 激動の昭和史


酒販免許前夜
 浪速の酒屋


食の洋風化と
  ワインの和風化


20世紀を象徴する酒
 甲類焼酎


ウイスキーの日本化は
  いかに進められたか


ビールこそが
  「20世紀の日本の酒」


自由度の高さと
  風土性の豊かさ
  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
東京下町の小売酒屋-激動期のゼロからの出発
酒類流通を対象とした「20世紀の酒文化」新シリーズ四回目は、大正初期から東京下町で小売酒屋を営む三河屋酒店の今日までの軌跡をたどる。同店は、創業間もない時期に大津波、関東大震災、東京大空襲と立て続けに災害に見舞われながらも、それを乗り越えて深川の地で商売を続けてきた。戦後まもなく先代から商売を引きついたご主人の黒澤春雄氏にうかがう。

三度の災害を超えて
−ご主人のお父様が酒屋を始められたのですか?
黒澤  ええ。親父は明治25年に群馬で生まれました。農家の四男坊でしたから、口減らしで学校終わるとすぐに上京しまして、しばらく奉公した後、小売酒屋を始めました。奉公先が酒の関係だったわけでも、実家が酒屋をやっていたわけでもありません。奉公先の旦那に小名木川にいい物件があるから独立して、小売酒屋でもやったらどうかと言われてその気になったようです。
店はいまの小名木川の交差点のそばにありました。お金があるわけじゃない、力もありませんからもちろん借地です。母親と二人でがむしゃらに働いたんじゃないでしょうか。店を出してすぐ、大正6年に大津波がありまして、ここいらはぜんぶ水浸しになりました。親父の店もやられました。そのあと関東大震災(大正12年)でまたやられまして、震災の後に道路が拡張されることになったんで、この店のはす向いのセブンイレブンがあるところに移ってきました。セブンイレブンは先月オープンしたんですが、うちの息子がこれからは酒屋だけってわけにもいかないと考えて始めました。
それで昭和20年3月の東京大空襲でまた焼けた。このあたりにいた方はみなそうですけれども、親父は3回も店をなくしているんです。
−ほんとうにたいへんなことですね。
ご主人が育ったのは、そこのセブンイレブンのあるところですか。それともお住まいは別にあったんでしょうか。
黒澤  いや店と住まいと一緒で、そこで育ちました。私が覚えているのは小名木川からここ(江東区千田)に移ってきてからです。あそこに見える小学校に通いました。

毎日届けた少量の酒
−当時、この千田という場所はどんな町だったんですか。
黒澤  原っぱばっかりでしたよ。年に何回かサーカスが立ちました。この千田の商店街には戦前からの店は何軒もなくて、みんな戦後に住宅地として人が増えてからの店です。いまは、四つ目通りの向こう側が商店街になっていますけれど、もともとはこっち側に商店がありました。戦災で焼けた後、こっち側は戦後は緑地帯にするという話があって、そんなところに店を出しても商売にならないというんで、みんな向こうに店を出したんです。
地方から戻ってきた人もみんな向こうに行きました。でも、緑地の計画はなしくずしになっちゃいまして、このとおり住宅がいっぱい建っています。
−地場の産業はなんだったんでしょうか。特定の職業の方が多く住んでいたというようなことがありますか。
黒澤  まわりに堀が多くて、木場が近いですから材木関係の仕事をする威勢のいい人が多かったです。結束屋ってご存知ですか。材木を束ねる仕事です。大きな材木がばらけないように束ねる専門職があったんです。まあ、よく言えば粋なんでしょうが、体力自慢の元気だけが取り柄みたいなのがいっぱいいました。店を構える時にも「がらのいいところじゃないけど、酒屋やるにはいいよ」と言われたそうです。
両親はそんなお客さんに酒を売っていました。私もよく使いにやらされました。当時はみんな余裕がないから一升瓶で酒を買える人は少なくて、通い瓶(徳利ではなく一升ガラス瓶)に三合とか四合とか量って詰めてもって行きました。それが毎日のお客さんがいるんです。一升まとめて買えなくて、少しずつ毎日配達しました。

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