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過去記事一覧

清酒の量産と品質

近代酒類流通の
  源流をたどる


京都老舗酒販店の
  明治・大正・昭和


東京下町の小売酒屋
 激動の昭和史


酒販免許前夜
 浪速の酒屋


食の洋風化と
  ワインの和風化


20世紀を象徴する酒
 甲類焼酎


ウイスキーの日本化は
  いかに進められたか


ビールこそが
  「20世紀の日本の酒」


自由度の高さと
  風土性の豊かさ
  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
東京下町の小売酒屋-激動期のゼロからの出発
問屋の営業に酒食を供して
−当時は樽からの量り売りですか?
黒澤  そうです。新川の酒問屋から仕入れて売っていました。金盃の本高田、それに新橋にあった三宅(千福)を主に扱っていました。どうしてそこと取引するようになったのかは聞いていません。
その後で醤油問屋系の広屋と取引をするようになったんですが、これは親父の実家の親戚筋になる醤油屋が仲介してくれたんだそうです。現金取引なら卸してもいいということだったらしいです。昔は問屋との取引は簡単ではありませんでしたでしょう。信用がないと口座を開けませんでした。それ以来ずっと、私の代になっても広屋がいちばんの仕入先です。
−ご両親が問屋の営業の方と商談されていたのを覚えていらっしゃいますか。
黒澤  商談の内容までは知らないですけれど、営業が来てたのは覚えています。うちでよく昼飯を食べて、酒を飲んでいました。のどかな時代でしたよねえ。いまと違って商品がいろいろあるわけじゃありませんから、ひとつかふたつの銘柄を売っているだけですから、営業はあんまり仕事がなかったんじゃないですか。
察するに、親父は問屋に借りがあったんだと思います。仕入先の営業さんに食事を出して、昼間から酒飲ましているんですから。きっと支払いを先延ばしにしてもらうように頼みごとでもしてたんでしょう。独立してすぐに店を失っているんですから、余裕があったわけがない。

小売酒屋か居酒屋か
−当時の小売酒屋は店を何時頃に開けたものなんでしょうか。いまですと9時とか10時に開店というところが多いですけれど。
黒澤  営業時間といってもいまと違いますから、朝起きたら木戸を開けて、寝る前に閉めるという感じでした。酒屋に限らず小売屋はどこもそうだったでしょう。店を開けていればいくらか売れますからね。起きているなら店を開けておかなくちゃ損だと思っていました。学校へ通っている子がいるとこなんかは朝は早く起きますから、おそらく7時には開けたんじゃないでしょうか。
−夜は7時くらいまでですか。
黒澤  戦前はけっこう遅くまでやっていました。うちは夜中の12時頃までやってたと思います。コップ酒を出していましたから、お客様が遅くまで入ってきたんです。燗をつけて出してました。うちはやっていませんでしたが、煮炊きした肴を出している店もありました。東京ではあまり見かけなくなったですけれど、いまも時々ありますよね、そういう酒屋が。
−それが戦前に酒の小売りが免許制になる時に整理されたと聞いています。
黒澤  免許の時もそうだったのかもしれないけれど、決定的だったのは戦時体制で配給になる時じゃないですか。配給は一般の家庭用のと業務用のと分かれていましたから、業務用のほうで配給を受ければそれは飲食店ということですよね。そっちのほうが有利な(酒が多く供給された)時期もあったんです。うちはその時に家庭用の配給所になって、近くの酒屋どうしが2〜3軒よってやっていました。戦争で女子供は疎開してましたが、男は仕事もあって残っている人が結構いましたからね。

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