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黒麹菌64年ぶりに里帰り
−先頃、坂口先生が戦前に沖縄で採取され、東京大学に保存されていた黒麹菌が御社に戻されて、それを使って泡盛の仕込みが行われたと伝えられましたが。
佐久本 去年(1998年)の6月に菌が現存していると知りました。一種の仮死状態で保存されていたので酒にできるかどうかわかりませんでしたが、私の本家の咲元酒造とうち(瑞泉)で採取された黒麹菌を分けてもらいました。64年ぶりの里帰りです。
シャーレでの培養実験では咲元菌が旺盛に繁殖して、瑞泉菌はあまり繁殖しなかったんで、うちのは駄目かなあと思ったんですが、蒸米につけてみたら反対に瑞泉菌だけが繁殖しまして……。瑞泉菌のほうは酒の仕込みにこぎつけることができました。5月に、他の菌が混入しないように生産ラインを止めて工場を徹底的に洗浄してやりました。沖縄国税事務所鑑定官室と相談して、醪は通常の温度より低い18度(通常は24度)で酵母の活動を抑制して、黒麹菌の特性が生きるようにしました。
戦前に使っていた菌を使うことは簡単なことのように思うかもしれませんが、私共にして見れば初めて使う菌で、どんな特性をもっているのかわかりませんから仕込みを担当したものは眠れなかったと思います。戦前は仕込みタンクも開放してやってました。ですが64年ぶりに再現しようというのにそんな乱暴はできません。いわば跡絶えかけた伝統の黒麹菌の酒を現代の技術でよみがえらせたようなものですね。
−ふたつの蔵元の黒麹菌しか戻されなかったのですか?
佐久本 東大には14工場の19株が残っていたんですが、今も酒造りを続けていたのが2社だけだったんです。戦争でめちゃくちゃに破壊されているから、他の菌は戻るところが無くなってしまった。

戦禍をくぐりぬけた黒麹菌
−沖縄戦で首里周辺の泡盛工場が壊滅状態になって黒麹菌も絶えたと思われたなかで、お兄さんの佐久本政良さんが焼け跡から黒麹菌を見つけられ、それで戦後の泡盛造りが始まったと以前お聞きしましたが。
佐久本 ええ。今、沖縄全体で47工場あるんですが、戦前はこの首里だけで46工場ありました。ほとんど全部、戦争でやられました。私のところで残ったのは検定用の地下タンクと煙突だけ。
密造が多くてメチルアルコールを飲んだりするような事故も多発したので、昭和21年に官営で酒を造って配給することになりました。工場が五つ設置されるんですが、そのひとつの首里酒造廠がうちの向かいにでき、私の兄が取り仕切っていました。そこで兄が焼け跡からニクブク(稲藁の茎の部分だけとりだして編んだやや厚手の一種の蓙)を見つけて、開けてみたら黒麹菌が少し残っていた。それで泡盛を造ったと言います。
−そこから、戦後の泡盛造りが始まるんですか。
佐久本 焼け残った蒸留器やドラム缶やカメをかき集めてきて、原料の米は無いから宮古の黒糖や藷、何でも使ってね。酵母はイースト菌でしたよ。そんなのが4〜5年続いたかなあ。
昭和24年に民営化が許可されると、申請が殺到して沖縄本島で100軒近くが酒造免許をもらいましたが、あれで酒造りは案外難しいところもあるから、実際に操業したのは80軒足らず。そのうち戦前に酒造りをしていたのはごくわずかで、あとは初めて酒を造る素人たちでした。
だから、造った酒も泡盛というよりも合成酒みたいなものがほとんどで、品質も価格もまちまち。粗悪なものも多かったです。でも造れば酒が売れた時代でした。

酒屋どうしで種醪を融通
−ところで、瑞泉菌で造った泡盛の味のほうはいかがでしたか。
佐久本 そりゃあおいしいですよ。蒸留したばかりの若い酒でも柔らかくて、昔の酒よりずっとうまい(笑)。
−戦前は蔵元が、おのおの独自の黒麹菌を使っていたということですが、味もバラエティに富んでいたのでしょうか。
佐久本 そんなに違いがあったわけではないですよ。黒麹菌を使っていましたし、一般受けする味に寄っていきますし、今みたいに各社が自分のところの酒をどんどんピーアールして売るわけではなかったでしょう。だいたい決まった味の幅の中に収まってましたね。
首里には酒屋が集中していて、みんな兄弟みたいなものでしたから、あっちの酒がうまいと聞いたり自分のところの種醪がよくなくなると米をもっていって、醪を分けてもらっていましたしね。種にする醪一升と米二升を交換してもらうんです。麹も同じように融通することがありましたよ。酒屋はたいてい酒屋から嫁をもらっていたから皆親戚になっちゃうんだ。
酒屋だけの頼母子(たのもし)もやりましたよ。規模が小さいから経済的な援助も必要だったんです。

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