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  −乙類焼酎の100年


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酒論稿集
20世紀の酒文化
自由度の高さと風土性の豊かさ−乙類焼酎の100年
なぜサツマイモだったのか
−サツマイモが腐りやすく酒造りで扱いにくい原料なら、余剰穀物が他地域から入ってきてもよさそうなものですが、そうならなかったのは単に価格の問題でしょうか?
鮫島 サツマイモはいっぱいある、というのがいちばんの理由だと思います。あとは米麹をたくさん必要としないということがあると思います。もともと鹿児島では雑穀を作っていたんです。きびとか粟とかを。でも、雑穀を酒にするには糖化にたくさんの米麹を使わなくてはならない。サツマイモは蒸しただけで甘くなる。だから麹が少なくてすむ。
いまの芋焼酎の麹歩合はサツマイモを100使うと麹を20使う。明治期は100に対して12。江戸期は100に対して麹が7なんです。米はほんとうに少ししか使っていない。ですから麹の酵素力はものすごく弱いし、しかも酵母菌を培養してないどんぶり仕込み。腐るのは当たり前なんですが、これをバクテリア、特に乳酸菌をうまく使ってコントロールしていました。清酒の生もとや山廃と同じ考え方です。それでやると今の芋焼酎と違った味わいを持った焼酎ができる。
純粋培養の麹と酵母で酒を造る技術は西洋から来たものです。日本の伝統的なバクテリアをうまく使う技術はそれを境にして廃れた。明治から大正に変わる頃というのは、そのように酒の質が変わる境目に位置しています。

江戸期の極上焼酎の復元
−先頃、江戸期の焼酎を復元されたそうですが、手がかりは何だったのでしょうか?
鮫島 170年くらい前、江戸時代末期の芋焼酎の造り方を書いた『蕃藷考(ばんしょこう)』という本が見つかったのでそれを元にしました。書いた人はどういう人かよくわかっていません。非常に手のこんだ造りで、サツマイモの皮をみんな剥いて仕込む。そして笹の葉を黒焼きにして炭にしたものを絹の袋で包んで三日目の醪の中に漬け込んで発酵させる。そして蒸留するといちばん最初の七割くらいを取る。これが「上品(じょうほん)」で、最後までとると「下品(げほん)」と言うと書いてある。とにかく手間ひまかけてこれ以上はないという造りです。おそらく、自分が飲むか、誰かに献上するか、特別な造りでしょう。
江戸のを復元しようと思ったのは、江戸中期の橘南谿(たちばななんけい)という京都の医者が鹿児島の芋焼酎は「味、甚だ美なり」と書いていたからです。蒸留器を持ち帰って造ったというほどの気に入りよう。「京都の焼酎より強くない」と書いている。京都の焼酎というのはおそらく粕取り焼酎で、サツマイモはでんぷんが少ないですから当時の技術ではせいぜいアルコール度数が20数%にしかならない。だからそういう表現になったんだろうと思います。

清酒的なものを追い求めた蒸留酒
−日本では南九州以外では粕取り焼酎でした。南九州だけで醪取焼酎が発達した理由をどのようにお考えでしょうか。
鮫島 清酒が造れなかったというのがいちばん大きいのではないでしょうか。鹿児島はシラス台地で土地が痩せていて米ができない。おまけに台風の常襲地帯。藩に収める年貢もよそは五公五民とか半分は自分のところに持って来ることができたけれど、鹿児島は八公二民でほとんどお上に持っていかれました。米がふんだんにあって気候条件が整っていれば、清酒を造っていたと思います。蒸留酒には風土のハンディを人間の知恵で克服するという性格があります。1700年代以降にサツマイモが入ると、それを使って清酒のように飲めるものを創り出そうとした。
清酒のアルコール度や飲み方は日本人の体質によく合ったもので、芋焼酎の柔らかな甘さはそのような飲み方に適していた。それがお湯割りにつながったのだろうと思うし、きっかけを得て焼酎のお湯割りがあっという間に全国に広がった理由だと思います。
−それはいつ頃の話ですか。
鮫島 昭和50年代初期です。
−焼酎ブームの直前ですね。あの前は焼酎はお湯割りで飲まれていなかったのですか?
鮫島 飲まれていません。6:4ということで全国にお湯割りが広まって、変わった。球磨も沖縄も濃いのを飲んでた。
−前回のインタビューで瑞泉酒造の佐久本会長は、90歳の会長が子供の頃は泡盛のお湯割りがあったとおっしゃっていましたが。
鮫島 それはあり得ることですね。でも、主流ではなかったんじゃないでしょうか。
−鹿児島で芋焼酎がお湯割りで飲まれ始めたのはいつ頃から?
鮫島 これはよくわからないんです。はっきりしているのは大正期で、それ以前はほとんど出てこないんです。芋焼酎のアルコール度数が低かったことも関係しているかもしれない。明治の終わり頃には少し上がってきますが、明治42年でも28〜29度。売る時にはさらに水で薄めて売っています。たぶんそのまま燗をしていたんでしょう。
−大正期に二次仕込法になりますと、蒸留機械も変わってきます。直火からいまの水蒸気引き込み型の大型蒸留器になる。そうすると芋焼酎でも35度を超えてくる。その頃からお湯割りが出てきた可能性がある。

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