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過去記事一覧

清酒の量産と品質

近代酒類流通の
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京都老舗酒販店の
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東京下町の小売酒屋
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酒販免許前夜
 浪速の酒屋


食の洋風化と
  ワインの和風化


20世紀を象徴する酒
 甲類焼酎


ウイスキーの日本化は
  いかに進められたか


ビールこそが
  「20世紀の日本の酒」


自由度の高さと
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  −乙類焼酎の100年


宮廷の酒・国家の酒・
  大衆の酒−泡盛の100年


清酒の文明化と文化性
  の再構築


酒論稿集
20世紀の酒文化
ウイスキーの日本化はいかに進められたか
海軍がウイスキー造りを継続させた
−そんなかたちで、ウイスキーが日本らしい造りでできあがっていくわけですが、これだけ普及したきっかけというのは?
嶋谷 明治、大正の頃に外国のウイスキーを飲んでおられたのは、北原白秋や永井荷風、ああいう詩人とか文人。そういう人のはあんまり参考にはならない。
昭和の初めくらいから、そうとうに洋風な生活が広がって、経済も成長していく。そういう、西洋風の生活に対する憧れがだんだん養成されてきたところに、修養を積んでおいしくなった「角瓶」を出した。ただ「角瓶」が出てすぐ、おいしいといって飲まれたということではないと思う。
「白札」が売れなかったお陰で酒が熟成される。それでずいぶんおいしくなった。そしていろいろ貯まりますから、バッティングもできるようになる。グレインウイスキーをブレンドすることもできるようになってきた。
ただ売るほうでは、昭和の初めは、それはさまざまな悲惨な話があるようです。鳥井信治郎が一本一本を宴会や色街で自分で開けて飲んで、意見を聞きまくったという。売るほうはそういう苦労をしてた。有力な事業も手放した。
−「角瓶」が出たのが昭和12年ですね。当時の日本経済は二桁成長の上り坂で、大衆消費社会、工業化社会ができつつあった。
嶋谷 確かに私が小さい時のことを思い出すと、けっこうあの頃は贅沢な生活ができましたね。食べるものも豊富だったし。
私の生まれ育ったのが大阪の田舎のほうですから、親父が時どき大阪などに連れて行ってくれました。その時に親父は、ウイスキーのポケット瓶を持ってましたからね。
−ハイカラですね。
嶋谷 だから、やっぱりそういう雰囲気はあった。親父は近衛兵だったので、大正時代に東京で少し生活をしているんです。
−隊が、新しい洋風の酒を普及するのに果たした役割は大きいとよく言われます。
嶋谷 ええ。特に海軍は海の上ですから、アルコール度数の高いもののほうが輸送効率はいい。海軍はそうとうウイスキーを使った。軍隊には千差万別の人間がいますから、そういう人たちが生まれて初めてウイスキーを飲んだという意味はあったと思う。
それとうちは幸せなことに、戦時中も海軍の需要があったから原料もあり、生産もずっと続けることができた。そして、本社も大阪工場も空爆でやられたのに、山崎工場は生き残った。それが戦後の繁栄のいちばん最初の理由です。

水割りは日本独自の文化
−御社はウイスキーの広告のコピーに、昭和24年頃「文化人の酒」というのを使ってる。その5、6年後にはハイボールを「近代人の飲み物」という。昭和31年くらいです。その5、6年後に例の「人間らしくやりたいな」というのが出てくる。
嶋谷 みんなの憧れを突いていると思う。
−その後、例の「レッドを買って500円でおつりがくるよ」という、もっと大衆に、家庭の晩酌に入っていく。その当時から水割りで飲むことが多かったのですか?
嶋谷 私が大学に入ったのが昭和25年。卒業は昭和29年で、その頃はまだトリスバー、サントリーバーはなくて、大阪の南に「ハイボールの店」というのがあった。たぶん昭和27年頃でしょう。そこは(ベースのウイスキーは)「白札」でやってました。
トリスハイボールは戦後の混乱をやっと通り抜けた、都会のサラリーマンの新しい自由な飲酒形態をつくり上げたと思う。ウイスキーもやはり大衆化するための飲み方が必要で、それがハイボールになって出ていったのかもしれない。
−それがだんだん水割り中心に変わっていくのは、和食への普及をターゲットにした「二本箸作戦」の頃からですか?
嶋谷 「トリス」時代は、あんまり水割りというのはなかった。ウイスキーの上級移行が進んで水割りが増えていきました。佐治会長がよく言いましたが、水はプリズムの役割を果たすと。酒のよさもよくわかるし、悪さも、ものすごくよくわかる。
それと、われわれのウイスキーは水割りにマッチしている。水割りにしてハーモニーがよいようになっている。スモーキーな成分は水に溶けない。だから水で割ると分かれてしまう。水割りは、サントリーが考えたのではなく日本の土壌に自然発生的に出てきた。日本の文化ですね。

未来のために仕込む多様なモルト
−当時、ウイスキーの商品ラインナップはグレード別で、「トリス」から「オールド」、「リザーブ」「ローヤル」。今では、その上に「山崎」だったり「響」だったりしてますね。そのグレードのほかに、昭和60年前後にいろんなものが出ました。「エルク」とか「コブラ」とか「Q」とか。縦でなく横に広がる展開があった。
嶋谷 あれはいちばんうちが迷ってた時代。「オールド」も頭打ちだったので、コンセプトの異なる製品を横並びにずいぶんと出した。おもしろいのはこの時代でも一方で「山崎」が出て、そういうのは残ってるんです。
当時佐治会長は、「敵は己にあり」と言って、厳しいメッセージを全社員に出した。ウイスキーの価値を見直そう、原点に戻って見直そうと。それで「新リザーブ」が生まれ、それから「新オールド」。そういうものが今いいところにつながってきている。
−「コブラ」は、どちらかというとバーボンタイプだったと記憶していますが……?
嶋谷 ええ、あれはバーボンタイプ。
−ああいう商品を造るのには、かなり前から用意されているんでしょうか?
嶋谷 ウイスキーは、製品化するまで10年くらいかかりますから、最終商品を意識して原酒を造るというのは不可能です。未来に、どういうものが売れるかわかりませんから。われわれが多様化と言っている、いろんな原酒を造って用意しておく。そうすると、いろんな要求に対してそれに向いた原酒が選べる。「コブラ」のためだけに用意してたということはないです。それは不可能です。
−アイレイモルトは、海の香りがするとか潮の味が伝わってくると言いますが、かなり技術的に解決できるものですか。
嶋谷 ああいう強烈な個性のは却って造りやすいです。シェリー樽の甘いタイプとかね。芳醇でなめらかで、何とも言えんというようなのがいちばん難しいですよね。
スモーキーな酒を造る場合は、麦芽を乾燥する時にピートを多く燃やすわけです。もちろんメインの乾燥は、今は蒸気とか油を燃やしてやりますけれど、まだ麦芽の水分があんまり飛んでない初期にピートを燃やすと、水が多いですからものすごく煙を吸収する。その代わり、正露丸みたいな匂いが着く。快いスモーキーをうまく着けるのには技術がいります。
−言いにくいことですが、一時、御社のウイスキーはまがい物だというような悪評が広がりましたが。
嶋谷 そうでしたねえ。でも私らは一生懸命きちんと造っていたし、カラメルで色を調整することはスコッチでもどこでもやっていることです。樽によって色のバラつきが出るから、どうしても調整は必要なこと。造り手としてはたいへんつらい頃でした。

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