時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

 
<論稿集トップへ

「天の美禄」を止めますか?

大人の文化と酒の飲み方

ワンカップはどう生まれ、どこへ行くのか?

「酒を混ぜる文化」考

諏訪杜氏の特質と「出稼ぎ」労働力輩出の背景

日本の蒸留酒の未来(上)

日本の蒸留酒の未来(下)

酒を交ぜる 酒を寝かす

大地の精霊とワイン

文明化の一極として
  ある文化の酒


「乾杯」越境した酒作法
酒論稿集
酒の文化論
文明化の一極としてある文化の酒
工業化を超えた文化性
 工業化は、多くの場合、酒の本質それ自体の変化を伴う。科学的な合理性の追求が、明解でない部分を切り捨てるからである。これに対して、情報化は酒の本質を損なわない。 曖昧さの中に、おいしさの根源が秘められていると考えて、価値を付加しようとするからである。
 酒が文明化していくのは歴史的必然であって、これを止めることはできない。では文化として在る酒は、いずれ文明化して消滅するのであろうか。そうではない。文化の酒とし て在り続けることで文明化する道もある。文化から文明へ一軸上を移動していくことが文明化のすべてではないのだ。
 文化の酒として在り続けるということは、原初の姿を保つこととは違う。在り続けるためには変化しなければならない。それを「洗練」という。清酒もワインもビールも、そし てウイスキー、ブランデー、ウオトカ、等々、いまある酒類のほとんどは、二〇世紀初頭、それまでの時代を洗練化することで乗り越えて、われわれの手に渡った。そして、それ以 後の一〇〇年に工業化の洗礼を受けたのであった。工業化と洗練化は、人間の営為として、まったく別の次元にあるものである。
 工業化は、根本において、酒が文化として在ることを否定している。文化は限られた地域と、そこに住む人たちの暮らしの中に形成されるもので、その風土を抜きにして存在す ることはない。工業化は、その風土と訣別したところに成立する。酒づくりが工業化する時、そこに何が起きているか。その酒が拠るべき風土を離れ、多くの場合、擬似風土の中 に立て籠る。バーボンもカナディアンも、その類である。
 では、清酒を文化の酒というべきか、あるいは文明の酒とみるべきか。これは清酒の将来を考える上で、ひとつの切り口になるであろう。
 文明化の要件として国際化を挙げる限り、現在の清酒を文明の酒とみることはできない。だが、ビール醸造と比較して遜色ないほど高度に工業化した業界大手各社の実体にてらせ ば、灘や伏見が擬似風土であることを認めないわけにはいかない。さらに、その生産施設を海外に建設して、清酒醸造の技術移転に成功していることを考え合わせれば、これを文 化の酒と主張するのは強弁に過ぎる。問題は、なぜ清酒が国際化に大きく立ち遅れたかにある。考えてみるに、清酒の市場が日本人の嗜好の中にしかないと、無意識のうちに思いこ んでしまったからではないか。あるいは、茶道や能のように、純粋な日本文化として主張し通そうとしているのか。だが、これはおかしい。すでに工業化した製品を、日本固有の 純粋な文化だと、誰も本気で思ってはいないからだ。
 ここが、二〇世紀に技術革新を果して長足の進歩を遂げた清酒が到達した地点である。ここからどこへ向って進むのか。それが課題である。失われた文化性を、手づくりによっ て復権させるのか。総じていえば、工業化は後戻りできない。すでに社会基盤がその上に構築されてしまった以上、たかが酒といえども、この枠組みの外へ産業の全体を持ち出す ことなど不可能である。この悩みは、清酒だけのものではない。ビールもウイスキーもワインも、等しく、この問題をかかえて二一世紀に入ったのである。
 文明化の最も顕著なビールについて、二〇世紀末の日本市場で目にしたのは、地ビールの輩出であった。これをビールにおける文化の酒の復活と誤解してはならない。こうした ミニ・ブリューワリーの設備、資材、技術、経営のすべてをセットにして、世界中どこへでも販売する事業が成立していることこそがビールの文明化を象徴している。先行して寡 占化に到達した大手ビール会社の発端を並べてみれば、歴史の繰り返しであることが、よくわかるはずだ。もしも、文明化したビールの対極に何を置くのかと問われたならば、文 明社会のなかで探して目につくのは、ベルギーの修道院が醸造するビールである。もっと視野を広げれば、雑穀を発芽させてつくるアフリカのドブロク、例えばウガンダのラコイ やエチオピアのボルデなどが見えてくる。
 だが、このような文化、文明の対比はあまり意味がない。むしろ、文明化したビールの文化性について考察したほうが、二一世紀の酒を考えるヒントになるのではないか。
 そこですぐ思いつくのは、高度に工業化したビールの中にも、産地の独自性を主張できるものがある、ということである。
 ひとつは、ドイツの「ビール純粋令」。
 もうひとつは、イギリスの「上面醗酵」。
 どちらにも、ビールづくりの思想が表明されている。しかし、こうした制度や技術は、本来、文明の側につくもので、地域に縛られず、どこへでも移転できる。にもかかわらず、 現状では、それぞれの国のビールの文化性に寄与している。二〇世紀におけるビール文明化のベクトルが、ビール醸造の科学的、経済的合理性を追求する方向にあったからだ。
 このことは、近代ビールの発祥地と目される二つの国が、文明化において保守的であり、酒としての属性をビールから失うまいとしていることを意味する。裏がえして言えば、 二〇世紀、グローバルに進行したビールの文明化は、濃醇でオーセンティックなスタイルから遠ざかる方向を目指している、ということになる。日本ではいま、それが制度的に「発 泡酒」と呼ばれている飲みものを生み出した。

<<前頁へ      次頁へ>>