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米を輸出するための大麦製日本酒醸造
 その論文の結論に、「四季醸造が可能である」こと、「製造日数を短縮できる」ことが 書いてある。これを実現したいというのがコルシェルトの執念だったことは、実際の文章 からも伝わってきます。
 彼は論文の結論に基づいてどういうことを提言したかということの内容は『酒史研究』 の一二号に紹介しておりますが、大まかに言えば四点あります。
 日本は幕末に開港し、五%という安い関税率で、しかも関税の決定権がなかったもので すから、海外から安い物がどんどん入ってきた結果、赤字貿易が続いていた。赤字を解消 しようにも売る物がない。そのために、まず貿易赤字解消策として米を輸出する。ふたつ 目の提言として、輸出にあてるため、酒は米以外のもので造る、ということです。
 しかも、コルシェルトは日本に来る前、ライプツィヒとドレースデンのビール会社で実 験か何かやっていました。
 ライプツィヒのコルシェルトがいたビール会社はいまでも残っています。この会社に当 時の雇用記録を探してもらったのですが、一二〇年も前ですから資料がなく、何をやって いたかわかりませんでした。しかし化学者ですので、ビールの醸造に関するいろいろな分 析をやっていたと思います。その関係でこういう提言に至ったのでしょう。
 米以外で造れる穀物として、彼は小麦と大麦をあげ、米は高いので小麦、大麦のほうが コスト的には安い。そして、デンプンの含有量も米に劣らないといって、盛んに政府のお 役人に吹聴したようです。
 そして、三つ目に、米以外の穀物で試験醸造をおこなうことを提言し、さらにムシのい いことに、四つ目として、これがうまくいったら政府から全国の酒造家に通達し、大麦製 日本酒を造らせろ、ということまで言っている。それくらい彼は熱心でした。試醸の段取りについては、コルシェルトの書簡にありました。一八七八年東京で、ラガースタイルで試験をする、一二月初めに着手 して来年の一月にできるというふうに約束をした手紙です。
 ただこれを、いつ、どういうきっかけで実施したかということについては、これまで資 料がなかったわけですが、やっと裏が取れました。裏付けとなる資料は、「開拓使公文録」 のなかにあります。コルシェルトに送るために、英文に翻訳するまえの原案として、開拓使が書いたものです。
 コルシェルトが北海道開拓使をターゲットにしたのは、北海道は米がとれないというの が大きな要因で、ビールの原料としての二条大麦の栽培も軌道に乗ってきそうだし、しか も開墾すれば大麦栽培の耕地はいくらでもできると、盛んにこれを北海道に推奨しました。 北海道の開拓使もそれに大いに乗り気であったということが読み取れます。


ラガースタイルの日本酒を試醸
 「開拓使公文録」によって明らかになったことは、「米ニ麦ヲ代用候新酒醸造法施行候」 つまり麦製の日本酒を造るということで、その試醸は東京でおこなう、経費はおおよそ五 〇円内外、その他雑費も開拓使が払う、試験が終わったら詳細を協議したいなどです。
 この「詳細を協議する」ということは、結局は実際に大麦製の日本酒を造ることを本気 で考えましょうという意味であったと私は考えます。どういう内容のものかということを はっきりさせた文章はありませんが、場合によっては開拓使の別の文書に入っている可能 性はあります。
 それはさておき、試験醸造そのものについて、現時点ではっきりしているのは、次のよ うなことです。
 まず、醸造方法はラガースタイル。要するに、北海道開拓使の麦酒醸造所は、低温で下 面発酵させるラガースタイルのビール醸造を明治九年からやっています。だからビールの 方法を日本酒に応用できるはずだというのが、コルシェルトの考え方であったようです。
 「日本酒醸造の研究」のところでも、醸造期間を短縮する方法として酵母を変える必要 があるとし、実際に酵母は下面発酵のビール酵母ということを言っています。
 原料は大麦。ただし、この大麦は二条大麦なのか、そうでない大麦なのかこれははっき りしないけれど、前後からして二条大麦ではないかというふうに思っています。
 醸造期間は二週間。最初いくつかの配合で実験していますが、米一対大麦二という原料 配合のものと、大麦だけのと二種類試験をしていて、どれもがよいという結果になってい たようです。試醸場所は東京ですが、記録を見ていると、牛込寺町の酒造場だったと思い ます。

「米酒に優れる」大麦酒はどこに消えた?
 誰がそれを試醸したかというと、これもよくわからないのですけれども、コルシェルト の書簡に何度も登場する大前寛忠、この人が試験醸造の実際の責任者ないしは担当者であ ったように私は考えています。
 この大前寛忠という人は、コルシェルトがサルチル酸をドイツから取り寄せてそれを日 本に紹介する時に、コルシェルトの意を体して新聞記事を書いた本人です。そのあと、大 前寛忠はコルシェルトの業績の翻訳をしたり、開拓使との間の通訳もしています。
 北海道開拓使書記の安田定則が、熱海で持病の療養をしていたコルシェルトに手紙を送 り、それに応えたコルシェルトの返事が残っています。
 この手紙に「製造を依頼して」とあり、コルシェルトが自分では醸造にタッチせず、誰 かに頼んだということがわかります。また同じ手紙に、この実験は「完全に成功」と書い てあり、さらに「酒は麦のみで製造できることがいま証明された」と書いています。そし てこのことを知りたければ、「オマイ氏」に聞いてくれと記され、この「オマイ氏」とは 大前寛忠のことですから、大前寛忠が大麦製日本酒の試験醸造を担当したということがほ ぼ言えるだろうと考えています。
 さて肝心の評価ですが、最初にできた大麦製の日本酒は、明治一二年二月二八日の公文 録には、「酒気が爽快で、米酒に優れる」と書いてあります。そして「北海道必造の飲料 である。ついては札幌でも試醸したい。そして試醸とは関係なしに醸造法を詳細に取り調 べてくれ」と、開拓使の本省から東京出張所に文書が届いております。
 実際にそれがおこなわれたかどうかという 追跡に至っていませんので、今日おいでの皆さんがそういうことを頭のどこかに入れてい ただき、なにかの機会に資料を見て「あっ、それらしきものが……」と発見してくだされ ばありがたいと思っております。よろしくお願いいたします。

【プロフィール】
藤原隆男(ふじわらたかお)
1938年、岩手県生まれ。グラスゴー大学でイギリス酒造業を調査研究。現在、岩手大学教育学部で経済史、産業振興論を講義。著書に『近代日本酒造業史』(ミネルヴァ書房・1999年)などがある。

月刊酒文化 2002年 3月

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