時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

 
<論稿集トップへ

20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
堺の酒小史
 鳥井は明治二一年(一八八八年)スペイン、バルセロナ万国博に初めて壜詰の日本酒を出品した。これは堺における、いや恐らく日本 における最初の壜詰酒であった。この万国博出品を契機に明治二四年から朝鮮、沖縄、ウラジオストック、ハワイへの輸出を開始、明 治二八年にはサンフランシスコ、明治三〇年には台湾への輸出を拡大した。この頃伏見の月桂冠も、灘の菊正宗も、明治二八年から北 米への輸出を始めていたが、海外輸出では堺の方が先駆者であったのである。そればかりか堺の酒市場は国内市場よりか海外市場に最 大の市場を見出していたのではなかったかと思われる。というのは、堺の酒の当時最大の市場は朝鮮であり、これに対し東京への移出 高は朝鮮への輸出の約三分の一に過ぎなかったからである。
 それでは朝鮮へ輸出された堺の酒は現地でどういう評価をえていたのか。明治三二年一 〇月三日付の釜山領事館報告によれば、「釜山港の輸入日本酒の醸造元はたいてい堺と灘の二ヶ所で、とくに良く売れているのは堺産 の金露と灘産の白鶴、これに次ぐのは堺産の文明一、澤亀、灘産の菊正宗である」。(『通商彙纂』第一四九号)また明治三三年二月一 五日付京城領事館報告によれば、「京城へ輸入の日本酒は、原産地によって区分すれば堺八分に対し灘二分の割合で、そのうち需要が もっとも多かったのは金露であって、全輸入酒の七〇%を占めていた」のである。(『通商彙纂』第一六二号)
 需要者のうち韓国人はきわめて少なく、圧倒的部分は在留日本人で、在留人口の増加とともに日本酒の輸入も増加の傾向にあった。 在留日本人の間で堺産の酒が人気があったのは、堺の酒は灘の酒と比べて一升につき六―四銭安くもっとも買い易かったからである。
 ところで清酒の海外輸出においても、国内運搬に用いられていた四斗樽が主流であったほか、一升壜が用いられ始めていたことは注 目してよいかと思う。鳥井駒吉がバルセロナ万国博に壜詰めの清酒を出品したことはさきにのべたが、その壜とはいったいどんな壜で あったのか。その現物は堺に残っていないが、灘の銘酒「(枝菊)正宗」が明治二九年(一八九六)の輸出創始期に使っていた輸出用容 器は磁器製の一升壜であったことが分っている。その壜には丸みをつけて曲げた針金の機械栓(栓の頭も陶製)がついていた。(山本 孝造著『びんの話』一三八頁)
 私たちは一升壜といえばガラスの一升壜を想像するが、それは明治三〇年代に入ってからのことである。とすると、鳥井駒吉がスペ インへ送った壜詰め清酒も陶磁器製一升壜ではなかったか。それにしてもその陶磁器製一升壜はいったいどこで作られたのか。またそ れが果して一升壜であったのかどうか(「月桂冠大倉記念館」には、巨大な一斗壜が展示してある)、これも断定するのはむづかしい。 というのは、明治一〇年及び明治一五?一六年初めに来日したモースのコレクションには、一本の酒びんが含まれていて、それが一九九 〇年九月国立民族学博物館で開催された「モース・コレクション展」に里帰りして出品されたが、それは一升壜ではなく明らかにワイ ン壜だからである。この壜のラベルによると、中味の酒は摂津国で醸造された「小町酒」で、売弘元(うりひろめもと) は横浜常磐貮(町)の金沢である。山本孝造氏は当時「輸入洋酒の流行の波に便乗しようと、舶来のワインの空き壜に日本酒を 詰めた」(前掲同書、一三六頁)というが、恐らく横浜の外人の需用をあてこんだ革新的な清酒販売戦略であったに違いない。それに ヒントをえたかどうかはともかく、従来の酒樽とともに、堺の壜による清酒海外輸出は、酒容器の歴史から見ても、まさに画期的な革 新的事業であったといってよい。
 さて、海外市場への酒の輸出といっても、堺港からいったん大阪または神戸へ移出され、そこから海外へ輸出された。明治四〇年堺港 から積出された貨物のうち、最大の移出価額を占めたものは「和酒・瓶詰和酒」であって、その合計金額(約一六〇万円)は、堺港全移 出額(約六〇〇万円)の二五%弱を占めていた。それは堺の近代工業を代表する綿・木綿・屑糸及び煉瓦の移出合計額(約一〇〇万 円)をはるかに上廻っていたのである(『大日本帝国港湾統計』による)。いかに堺が明治末においても、近代工業の発達がみられた とはいえ、酒造業が大きな地位を占めていたかが分るであろう。
 なお、因みに『大日本外国貿易年表』によれば、明治四〇年の清酒の輸出は、全国合計で八三八万八五八○円、そのうち神戸港は九 〇万八五七八円、大阪港は一九〇万八八四一円、とくに大阪港の中に堺の酒がかなりの部分を占めていたであろうと思われる。

<<前頁へ      次頁へ>>