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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
堺の酒小史
 それでは清酒の輸出先はどこであったか、第一はやはり朝鮮で約四〇%、二位関東州、三位ハワイ、四位北米合衆国、五位カナダ、 英領アメリカ、その他ロシア領アジア、香港、インド、海峡植民地、フィリピン、シャム、イギリス、フランス、豪州となっていて、中 近東、イスラム圏、アフリカ、中南米を除く殆ど全世界に及んでいる。なお、堺の輸出用壜詰め銘酒のラベルが堺市博物館に保管され ているので、そのいくつかを掲げておく。

堺・酒造業の衰退
 ところで、堺・酒造業の輝かしい発展の蔭に、はじめから内部に抱えていた気がかりな問題があった。それは水の問題である。堺の 酒造業は、実は既に明治二〇年代初めから、醸造用水の不足に悩み、「特ニ仕込水ヲ灘、西ノ宮ヨリ引用」していたのである。(『堺酒 造月報』第五二号、明治二七年一二月)それに加え、年々造石高が増加するにつれ、灘地方の宮水の移入もまた増加していった。そこ でその緩和策として、大正元年一〇月から堺は豊富な地下水の利用、つまり井戸水の積極的利用のための技術開発にのり出し、一定の 成果を収めたのであった。しかし水不足が解消したわけでなく、また業界の競争に圧され て、堺の酒造石高は明治二〇年代末から三〇年代初めをピークに年々減少してゆくのであ る。そうした造石高及び酒造業者減少の裏で、主として灘地方から酒そのものの移入高が増加してゆく。増大する輸出需要を賄うために は、灘の移入酒に頼らざるをえなかったからである。そうした傾向は明治末から大正初めにかけ、ますます強くなっていった。その行 き着く先は、堺酒造業の衰退であった。
 それでも大正九年末の堺市において、清酒は綿糸、綿織物に首位の座を明け渡したとはいえ、まだ第二位を占めていた。因みに生産 額五〇〇万円を越える産業の最大は綿糸・綿織物、ついで清酒、それに肉迫しつつあったのが、大正時代に入り急速な発展をみた新興 の足袋、セルロイドであった。こうして堺が工業都市として成長してゆくにつれ、酒造業の地位は次第に下落してゆき、昭和四〇年代 中頃には殆ど消滅状態になった。その有様を『続編 堺市史』はつぎのように記している。

「かつては灘とならび名酒の産地でしられた堺も、いまは昔のおもかげを全く失い、わずかに甲斐町西一丁堺酒造(株) (現在新泉酒造(株))の「新泉」が残るのみになってしまっている。「金露」で古くから知られた大塚合名も、戦後は 灘に中心を移し、また「福徳長」の石津北町の福徳長酒造(株)も、醸造は灘に移している」(同、第三巻)

 私は堺に住んで五○年。かつては「新泉」「金露」といった地酒を嗜んだ私だが、二○年ほど前から医者の勧めもあってアルコール 類はなるべく控えるようにしている。先日、近所の昔なじみの酒屋に立ち寄ったついでに、「いま堺の地酒はどうなってるの」ときいた ら、「それがだす、いま一軒もおまへんのや。『新泉』もなくなりましたし、ここにおますパック入りの『金露』も、製造は神戸市東灘 区となってますやろ。さびしいことですワ」。
 かつて小灘とまで謳われた堺の酒造業、いまやその姿はまったくない。

月刊酒文化 1996年 9月

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