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北関東地方における清酒製造業の形成過程

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お雇い外国人の
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堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
江戸時代における知多半島の醸造業の展開とその背景
3 醸造の諸道具
もちろん、醸造の現場では蔵人・舂屋など の労働力が必要であったが、これも知多半島 随一の農業地帯であった阿久比谷の人々の農閑期の出稼ぎと三河からの奉公人が中心となっていた。また、桶・樽やその他の木工品の製作・修繕は、地元から雇用された桶・樽職人や大工などが従事していた。酒菰の印書は半田周辺の職人が行い、樽に捺す焼印は乙川村(半田市)の焼印師から購入している。搾り袋は布・袋と糸を渡して縫製や繕いを行っているが、この作業には主に半田周辺の女性があたった。醸造業に共通の道具類は貸金の担保となる場合や莚などの消耗品は酒造家どうしで融通しあう場合もあり、多くの道具類は知多半島内、それも半田周辺で調達することが可能であった。
その他に知多半島外から持ち込まれるものもあった。リサイクル商品である空樽は商品の販売先である江戸から大量に船の帰り荷として持ち込まれる。莚や縄は農業地帯を背後にもつ名古屋や桑名などで生産されたものが多かった。材木類は名古屋・三河、才木(薪)類は三河・熊野で調達されることが多く、知多半島内で十分に調達できない物資は隣接地域からの物資が補っていた。
このように知多半島内と隣接地域で必要な物資のかなりの部分が調達可能であったが、さらに遠隔地で調達される場合もあった。中埜家の酒方の支出を記録した「買帳」から作成した図表3 によれば、物資調達先として大坂の天満屋・広島屋、尼崎の丹波屋などの名前が確認できる。

(前略)然者先達而ハ罷出候処、不相変御注文
被仰付、難有仕合奉存候、則左ニ、
     覚
一横縄上々 三百駄
九月三
代弐拾七匁
一A 縄上々 六百太
八月三
代四十八匁
一簓上々 弐〆目
六月三
代金三朱ト七分五り

右者五月七日永昌丸忠兵衛船へ積入可申候間、御地入津之砌御改御請取可被下候、尚また不相変御注文之程偏ニ奉希上候、先右之段御案内旁奉申上度、如此御座候、
五月十五日 (印)
店新助
増倉屋三六様
御支配人様 (中埜又左衛門家文書)

印文には「大坂堺筋通順慶町北へ入・酒造道具一式酒醤油袋類・○吉・丸屋万七」とある。宛先の「増倉屋三六」は中埜又左衛門の酒造家としての名前である。この史料から中埜又左衛門は大坂の酒造道具を扱う丸屋から縄や簓を購入していたことがわかる。図表3に名前のある商人も酒造道具を専門的に扱う商人であったと考えてよいであろう。日本一の酒造地帯を抱える尼崎やそこからも近く物資の大集散地であった大坂にはこのような酒造道具専門店が出現していたのである。
また、図表3 のなかで「土佐杉木」「蓋」などとあるのは、桶材と考えられる。他の史料では、兵庫の讃岐屋庄七からの大桶売却の情報が尼崎の丹波屋七兵衛を経由して、中埜又左衛門に届けられている。大桶は大坂方面で購入されているケースが多く、酒造道具のなかでは調達先を遠隔地に求めなければならない特別なものであった。
以上のように、知多半島・衣浦湾沿岸には醸造に必要な原材料や道具、労働力のかなりの部分を供給できるこの地域の生産力が存在していた。この地域的な基盤のうえに、醸造業先進地域であり全国的な物資流通の中核である上方に成立した醸造道具供給拠点に必要に応じてアクセスすることによって、この地域の醸造業は成り立っていたのである。

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