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2 近江商人の店舗展開
 近江商人は伊勢商人と並ぶ近世の代表的な行商人である。湖東、八幡、高島、日野などおよそ現在の郡に相当する範囲ごとに得意と する商品が異なっており、その中で清酒は日野商人の主力商品であった(小倉、一九九〇)。
 日野商人は、「商人」と言っても卸・小売業に特化していたのではなく、北関東地方の街道沿いを中心に店舗を設置し、清酒の製 造・販売を行った。ただし、店舗の運営は昭和四〇年頃まで、支配人という小僧からのたたき上げに一切が任されており、主家は日野 に住み続けて年に一、二回店舗を巡回した。主家が店舗付近に移住しなかった最大の理由は、村落内の信用ある人材を安定して確保す るためであろう。現在も秩父市で繁栄している矢尾本店の例から明らかなように、近代において有力な日野商人は居宅の周辺五〜一〇 qから労働力の大部分を調達していた(図表2)。そして、彼ら奉公人は一般に代々主家に仕え、店舗の内外で激しい出世競争を強い られた。
 なお、労働力の募集圏は地縁・血縁関係によっておおよそ決まっていた。つまり、日野の中心村落では鈴木家、矢野家、矢尾家、横田家など分家別家関係にあるグループが「日野屋」、その西方にある北比都佐村では藤崎家、田中家、北西家など の地縁グループが「十一屋」という屋号をそれぞれ使用して組織化し、それぞれ異なる労働力の募集圏を有してい た。なお、「近江屋」と「桝屋」ないし「舛屋」は日野屋の、「江州屋」と「土屋」は十一屋の傍流が主に使用し た屋号である。これらの他、辻家を本家とする堺屋、島崎一統(3)の栄屋、竹村一統の天満屋などが繁栄した。
 これらの地縁・血縁関係は店舗展開にも反映されており、日野屋が埼玉県東部から栃木県にかけて、十一屋が群馬県か ら埼玉県北西部にかけての街道沿いに立地している(図表3)。 近江商人は中山道を通って碓井峠から関東地方に入っていたため、創 業年の古い本家筋の店舗ほど群馬県と埼玉県北西部に集中している。現在の地名で説明すると、まず十一屋グループでは野田六左衛門 が一七五三年に群馬県安中市で、高井作右衛門が一七二九年に藤岡市で、藤崎兵衛が一七二八年に鬼石町で、田中藤左衛門が一六九 四年に埼玉県深谷市で、日野屋グループでは鈴木忠右衛門が一七四八年に群馬県堺町で、矢野久左衛門が一七四八年に桐生市で、矢尾 喜兵衛が一七五〇年に秩父市で創業した。その後、一八〇〇年代にかけて十一屋が埼玉県南部へ、日野屋が埼玉県南部と栃木県へ進出 している。先に紹介した堺屋と天満屋が栃木県に出店したのも一八〇〇年代であり、近江商人としては後発の部類に属する。出店方法は、酒蔵の増設・買収に加え、分 家別家への暖簾分け、乗合(のりあい)商法(4)という複数の商家による共同出資・共同経営などが主であった。これらのうち、酒蔵の増設・買 収は日野屋と十一屋が共通して行ったが、暖簾分けと乗合商法は十一屋に少なく、日野屋に多い。この点から、十一屋が本家の経営規 模拡大によって安定経営を目指すのに対し、日野屋は経営体の分割によってリスク分散を図ったといえよう。
 また、屋号はかつて消費者に対する信用を示すものであったため(中野、一九八一、七四・七五頁)、近江商人はその性質を意識し て集中出店型の店舗展開を試みたと推察される。同時に、集中出店によってグループの市場占有率を高めることは、後発の参入者を阻 止し、経営の安定性を維持する上でも有効であった。このようにして、近江商人は出店先周辺の地主副業型経営を淘汰し、現代に至る まで比較的安定経営を続けてきたと考えられる。

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