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20世紀の酒文化

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近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

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北関東地方における清酒製造業の形成過程

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3 新潟県出身者による開業の経緯
 新潟県出身の酒造家は、開業前に現在の中頚城郡、柏崎市、上越市付近に住んでいた(図表4)。 創業年は近江商人よりも遅く、酒 株による参入規制の緩んだ一八一〇年以降であり、特に営業が自由化された明治期以降に集中している(図表5)。創業者の前 職は判明している限りでいえば、大部分が越 後杜氏か酒造家の奉公人である。また数は少ないが、新潟で清酒製造業を営んでいたものが、立地の便を求めて埼玉に店舗を移転 させた例もある。
 それらの中で最も一般的な杜氏から清酒製造業への開業方法をみるために、現埼玉県上尾市の田中屋本店を例に取りあげる(5)。田中屋本店の創業者・八 木要蔵は現新潟県吉川町で農業を営んでいた八木孫右衛門の次男として生まれ、一八五四(安政元)年から五年間、上尾の酒造家・井 部清兵衛家にて杜氏を務めた。一年間の賃金は五両であるが、一一月中旬から三月中旬までの季節労働とみて一二〇日で割ると、一日 当たりの推定賃金が京都大工の二・九匁や畳屋の二・七匁よりもわずかに高い二・九七匁となる(6)。職人として中程度以上の賃金を 得ていた要蔵は、わずか五年ほど井部家に勤めた後、自己資金一〇両で島田彦右衛門所有の家宅を借りて、一八五九(安政六)年に濁 酒製造業を開業した。
 そして、一八七二(明治五)年には酒蔵を建設し、同郷の八木吾作を雇って清酒製造業に転業した。その後、要蔵家は吾作を一八七 六年に別家開業させてから、同業の吉澤治平家、鈴木芳兵衛家を中心とする騎西屋グループと婚姻関係を結んで共同出資により磯吉家、 英太郎家を分家開業させ、さらに周辺市町村で同様の店舗展開をしていた大石屋グループとも姻戚関係を結んで、埼玉県の中山道沿いに 集中出店型の店舗網を構築した(図表6)。
 八木家に限らず、新潟県出身の酒造家には近江商人以上に暖簾分けや同業者同士の結婚が多い。例えば、埼玉県の岡野屋、岡田屋、 山屋、群馬県の大竹家、山賀家などがそれらに当たる。なお栃木県では、聞き取り調査と酒造組合名簿で確認する限り、創業者の出身地を問わず暖簾分けが少 なく、本分家関係による三件以上のグループ化は見つかっていない。その主な理由は人口密度が小さく、したがって集中出店をするほ どの広範囲な市場が少なかったからであろう。したがって、新潟県出身の酒造家による暖簾分けは、慣習化していたとはいえ市場規模の 大小に強く規定されていたといってよい。
 以上の方法により、新潟県出身の酒造家は店舗周辺の市場占有率を高め、灘・伏見や江州店(ごうしゅうだな)(7)の酒が流入するのを防いでいた。 だからこそ、彼らは第二次大戦後において、一件当たりの製造石数こそ少ないものの、業者数では最も多く存続した(図表7)。

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