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酒論稿集
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明地下三尺に眠る江戸の酒瓶
考古遺物に見る貧乏徳利の特徴
 江戸遺跡から見つかる徳利は、元禄年間前後、すなわち一七世紀の終わり頃から認められるようになる(先日のテレビ番組「水戸黄門」で貧乏徳利が悪事を暴く小道具として用いられていたが、この時代にはまだ貧乏徳利は無い。閑話休題)。これらの瓶の推定生産地には、愛知県北部から岐阜県南部にまたがる美濃・瀬戸地方、静岡県の志戸呂窯、岡山県の備前窯などがあるが、圧倒的に多いのは、美濃・瀬戸地方で生産されたものである。
 この美濃・瀬戸産徳利、すなわち「貧乏徳利」の形には、大・中・小の三種があり(右図)、各々時代を追って次第に変化している。これにより、徳利そのものを見るだけでおおよその年代を知ることができる(下図)。
 時代による変化をみると、天明年間前後(一八世紀後葉頃)を境に、大きく前後に分けられる。古い段階では、大中小いずれもが、らっきょう形をしている。釉薬は、大・中が鉄分を多く含む釉薬を施して褐色〜黒色を呈し、肩には藁灰と呼ばれる白濁した釉薬で化粧を施す。底には輪高台をつけている。小は、長石を多く含む白濁釉で、底は碁笥のように抉りこんだ形の高台をもつ。新しい段階になると、大中小いずれも、寸胴形に変化する。釉薬はいずれも灰釉もしくは長石分を多く含む灰釉を用い、灰色、黄褐色、淡緑色などを呈する。大・中に見られた肩の装飾も次第になくなる。すなわち、こうした変化の流れは、いずれも簡略化とみなすことができ、当時の生産者の意識がコストダウンを重視していたことをうかがわせる。
 
  それでは、大きさの違いは何を反映しているのであろうか。三〇〇本以上の近世貧乏徳利について(なにしろ、大量に捨てられているものであるから、二遺跡分程度の資料に当たるだけで、データは集まってしまったが)、その容量を測った事がある(下図上)。容量の分布は、サイズ毎に三つの山となって現れるが、これらに確実に入る量という意味で山の左裾の容量値を読むと、それぞれ一升、五合、二合半あたりを示すことがわかる。すなわち、中小の規格は、各々大の1/2、1/4になっており、これは一升を基本とし、その半分、さらに半分とした当時の枡の規格とも一致するのである。よって、考古資料からみた「貧乏徳利」の特徴は、枡で計った液体をちょうど収めることのできる瓶ということになる。枡の容量で規定された大量の瓶といえば、まず、液体商品の容器が想起されよう。いわば、今日の一升瓶やビール瓶の原型とも言えることになる。
 ちなみに、美濃部達也氏によれば、明治時代の貧乏徳利の容量は、小が三合になっているという(下図下、美濃部一九九六)。これは民俗の聞き取り事例や近世後期の文書でも、三合・五合・一升の三種が多く認められることとも一致する。これは、酒等の取引の基本単位が、江戸期を通じて一升から一合へと、より小口化したことを示しているのであろう。すなわち、数合の液体商品を小売りする際、一升を分割するのではなく、一合を加算する方式に改まったことが推測されるのである。
 さて、肝心の徳利の中身であるが、空の状態で出土する考古資料からは、なかなか特定することがむずかしい。当時、商われていた液体農産品といえば、酒に限らず、醤油、酢さらには食用・灯明用などの各種油などがあるはずである。実際、遺跡から出土した瓶のなかには、明らかに油臭のするものがあることから、この瓶の用途が酒だけに限られるものでなかったことは確かである。ただし、他の産物の消費量の多寡を考え合わせると、その膨大な出土量を説明できる内容は、文書に見えるように酒主体と理解して良いであろう。

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