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明地下三尺に眠る江戸の酒瓶
貧乏徳利の普及が意味するもの
 さて、これが出土陶磁器の数割を占めてしまうことから考えて、江戸の町では膨大な量の酒が商われていたことになる。左図に、郵政省飯倉分館構内遺跡における貧乏徳利の増加傾向を示したが、特に寸胴形に変化する天明〜寛政年間頃(一八世紀の末頃)に爆発的に増加することがうかがえる。この点についてもう少し考えて見てみよう。
 右図は、徳利が爆発的に普及する前後において、液体農産品の江戸表への入津量がどの程度変化しているかを、断片的な史料によって示したものである。増加率でみれば、醤油が圧倒的に増加しているが、これは野田や銚子などで地回りの生産が盛んになったため、江戸から各地へ出荷される分が集積されたものと考えられる。これを除けば、酒を含めて、微増程度に止まっていることがわかる。江戸の人口は江戸中期には既に人口百万と言われるまでに増加していたが、それ以降は幕末に至るまでゆるやかに増加するのみであったことを考え合わせると、やはり、流通量の急激な増加は考えにくい。それでは、取引容器だけが増加するというこの現象をどのように説明すればよいのであろうか。
 『守貞漫稿』によれば、酒の商い容器にはこのほかに樽があると記されている。樽には斗樽のような大きいものから、小形のものでもせいぜい一升程度であったようである。対して、貧乏徳利は二合半から一升である。例えば、同じ一升の酒を商うにも、樽ならば一つで済むものが、二合半徳利では四本が必要となり、容器の数は見かけ上増加することになる。すなわち、貧乏徳利の出土量の増加は、酒の流通総量の変化ではなく、酒の消費のあり方の変化、具体的にはより需要が小口化したことを示している可能性が高い。樽買いの場合は、屋敷単位などのまとまった需要(例えば、儀式・宴会)に対応した容器といえよう。一方、貧乏徳利に入る酒は、大人が数人、いや一人でさえ一回で飲み干してしまう量である。したがって、貧乏徳利の普及は、個人レベルの「その日、その場の酒」が普及したことを意味していることになる。これが元禄年間頃(一七世紀末頃)に登場したということは、この頃もしくはこれにやや遡った一七世紀の後半頃に、江戸における個人的な飲酒習慣が浸透していったことを示しているのであろう。また、初期の段階においては、検出例が武家屋敷の遺跡に偏ることから、こうした習慣は武家の中から波及したことがうかがえる。
 右図には、貧乏徳利全体のなかで、二合半のものが占める割合の時期的推移を示した。これによると、どの遺跡も時代が下がるにつれて、より小形の瓶の割合が増え、特に出土量が爆発的に増加する段階になって、小形の割合も急速に増加することがわかる。また、検出される遺跡も、前田百万石と呼ばれた加賀藩邸のような大藩の武家屋敷から、北山伏遺跡のような下級御家人や町人が居住したと考えられる遺跡まで、ほとんどの遺跡から出土するようになる。すなわち、日常の飲酒習慣は、江戸後期には町人階層にまで広まり、落語に見えるような長屋の八つぁん、熊さんが洟垂れ息子に酒を買いに行かせるといった光景が展開されるようになったのである。こうしてみると、謂れの不明な「貧乏徳利」という名称にも、どんと樽買いするのに対して、庶民が「その日その場の酒」をちまちま買うことに対する一種の卑下のようなものが表れているのではないだろうか。一説には、五合徳利に一合しか買えない酒を入れ、毎日店に通うことで見栄を張る江戸の気質がそこに潜んでいるという。また、瓶の大きさを同じ時期で比較すると、町人地よりも武家地の方が大きく、消費層の経済格差をうかがうことができる。大名藩邸同士でも、大藩ほどより大きくなる傾向が読み取れるのは、宮仕えのサラリーマンの悲哀といったところであろうか(もっとも、この時代では、勤め先は出自に左右される部分がほとんどであったろうが)。
 さて、この貧乏徳利は、全国的にみると江戸に突出している(左図)。瀬戸をお膝元に抱える名古屋城下においても、出現以降、陶磁器出土量全体の数%程度の割合で常に推移しており、江戸のような爆発的な普及の様子は見られない。京阪においては、幕末頃に丹波・立杭の徳利が増加するが、江戸中期以降に全体の何割を占めるようなことは無い。しかし、尾張藩士朝日文左衛門(鸚鵡籠中記)などの例にもあるように、少なくとも武家レベルにおいては、日常の飲酒習慣は各地の中核的城下町においては相応に広まっていたはずである。それでも、貸し容器が発達しなかった背景には、市場全体の規模が影響しているのであろう。小口相手でも、量がまとまれば商売になる。返却率の低い容器を貸し出すリスクを負っても、これを相手に商売の成り立つ市場が江戸にはあったのである。また、やきものの作り手にしても、他の器物より安価ではあっても、一つの市場で数がまとまれば、十分作るに値したのであろう。特に、美濃・瀬戸地方は村毎に特産の器種を定めて生産の効率化を図っていた。貧乏徳利は美濃地方でも、高田村で多く生産されたため、その名前を冠して「高田徳利」と呼ばれることもある。ちなみに、幕末の文書(「諸問屋再興調:嘉永四年と推定」)によれば、「白壹升徳利」は「四分五厘(約三〇文)」、対して「染付奈良茶茶碗」が「一匁九分(約一二七文)」とあり、今でいう飯茶碗の1/4以下の値段しかなかったことがうかがえる。
 それにしても、遺跡から出土する徳利の山を前にすると、その回収率はさぞかし低かったろうと思わずにはいられない。たしかに、うっかりするとすぐ黴が生える。そうでなくても、若かりし頃の我が下宿には、万年床とともに一升瓶やビール瓶が転がっていなかったか。人口構成が単身男性に大きく偏っていた江戸の町の生活の有様は、ある意味容易に想像できる。ともあれ、そんな商環境が江戸で貧乏徳利を発達させた訳で、その日の酒を嗜む習慣は、やはり江戸の中で「醸成」されていったと考えるべきであろう。今宵は、日々の酒を嗜めるようにしてくれた熊さん、八っあんに乾杯しようではないか。
 また、大量に使い捨てられるようになった貧乏徳利は、また、様々な用途に転用されることもあったようである。日常生活における保存用の瓶としての活用はもちろん、これに加工を加えたものも散見される。例えば、首を打ち欠いて筒形にしたものが散見されるが、打ち欠いた縁の部分をよく観察すると、さらに何度も打撃を加えた跡が残っている。これは、煙草(煙管)の灰落としとして転用されたものと推測されている。ソメイヨシノで有名な、豊島区染井周辺の植木屋跡(染井遺跡)をはじめとして、首の他に底に穴を穿ったものも多く出土しているが、これは植木鉢に転用した例であろう。観賞植物栽培もまた、江戸後期に一大ブームとなっているのである。さらに、関口広次氏によれば、湯を入れ、栓をして、湯たんぽとして転用されることもあったようである(関口一九九一)。このように、貧乏徳利は、また、江戸の庶民生活に深く結びついた親しみ深い容器だったのである。

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