時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

 
<論稿集トップへ

20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
江戸の地下式麹室 古泉 弘(東京都教育委員会学芸員)
はじめに
 酒類の製造に欠かせない原料の一つに麹がある。麹は元来麹菌を継ぎ足して製造していたが、その後、種麹の専門業者が出現し、米から品質の良い種麹を製造して販売するようになり、これを購入して麹を製造するようになったため、麹の品質が格段に向上し、かつ安定したものになった。専門的な種麹の製造販売は日本独自のものであるという。
 麹にはさまざまな種類があり、使用する目的によって使い分けられる。清酒をはじめとし、濁酒、焼酎、醤油、味醂、味噌、酢などの製造に必要不可欠である。麹の製造には温度・湿度管理と雑菌の防止が必要であり、そのための施設として麹室が用いられる。
 『日本山海名産図会』に描かれた伊丹の酒造家の麹室は「土室」と呼ばれ、地上に土を盛り上げて造られている。おそらくスサ入りの粘土を用いて造られているのであろう。これに対し、江戸の麹室は特殊であり、地下に造られるのが普通であったようである。ただし、地下式の麹室は通風が困難であることなどから、麹の品質は劣るともいう。
 江戸の地下式麹室は、本体が地下に設けられているため、現在でも多数が遺構として残っていると考えられる。事実、発掘調査された遺構も少なくない。私はこうした地下遺構に着目し、麹室を含む江戸の「地下室」について『江戸の穴』という本にまとめたことがある。その後発掘資料も大分増えたので、改めて江戸の地下式麹室について、考古学の側から再考してみることにする。

江戸の地下室
 二〇〇二年三月、お茶の水の東京医科歯科大学の西隣、大学と塀一つ隔てた三楽病院の看護婦宿舎の用地で、地表から二、三メートルほどの深さまで掘り込まれた地下室が発掘された。安全のために天井部はすでに撤去されていたが、四角い部屋の一遇には通路に当たる横坑が開いていた。縄文時代前期の「お茶の水貝塚」と、江戸時代の下級武家屋敷を対象としたごく小規模な調査であったが、件の地下室は、その構造から一見して江戸の地下式麹室とわかった。
 この場所から麹室が発見されたことは偶然ではない。敗戦前の一九三四年、隣の東京医科歯科大学の敷地から多くの同類の遺構が発見され、当時、マスコミを巻き込んで人々の関心を呼んだ。その折、この地下室の性格を巡って諸説が駆け巡った。主な説として、(1)古墳時代の群集墓説、(2)慶安の乱(由井正雪の乱)時の武器などの隠匿坑説、(3)江戸時代の穴蔵説、(4)江戸時代の麹室説があげられる。
 (1)から(3)はそれぞれ説明に無理や飛躍があり、結局、今日ではCの江戸時代の地下式麹室説に落ち着いたのであるが、この間の経緯は『江戸の穴』を参照されたい。ともかく私は、先の「お茶の水貝塚」から発見された麹室の部屋に下り立って感慨深いものがあった。というのは、一九八四年に小石川伝通院前で麹室の発掘調査を行ったことがあるのだが、その時は実際に調査したのは出入り口部分のみで、本体は春日通の下に延びていて、実況検分に当たった富坂署員の報告に頼るしかなかった。そのため、地下式麹室についてものを書いておきながら、本体を直接目にしたのは、この「お茶の水」例が始めてだったからである。
 一九八五年頃以降、近世都市江戸を対象とする発掘調査が盛んに行われるようになり、その結果、江戸の市中には数多くの「地下室」が存在したことが明らかになってきた。これらの地下室によって大地に穴が刻まれ、場所によっては蜂の巣のような観を呈することもある。これらの地下室は大きく六群に大別されるが、その内四群は「穴蔵」で、一群は今のところ性格不明、そして第二群と呼んでいる一群が「麹室」に当たると考えられている。
 ちなみに「穴蔵」とは、いわば地下式の耐火倉庫で、災害時において家財を緊急避難させるために用いたり、あるいは金銀を備蓄するためなどに用いた。土地に不自由する人々の間では土蔵代わりにも構築されたのである。穴蔵は大名屋敷を含む武家屋敷、町屋敷いずれにも広く分布するが、台地と低地という立地の違いによって、それぞれの構造も異なっている。台地上の穴蔵は、一般的に関東ローム層―いわゆる「赤土」―中に掘り込んで、地中に部屋を設けたものである。これに対し低地に存在する穴蔵は、土地が軟弱で地下に部屋を掘り抜くことができないため、四角く掘り込んだ穴の中に、木造の大きな枡形の部屋を設置し、その上に天板を乗せる。火災時にはさらに砂や水畳で覆って、天板の延焼を防いだ。

麹室遺構の構造
 地下室第二群としている江戸の地下式麹室の形態および構造を概観しておこう。まず、深さ三から五メートルほどの四角い縦坑が掘られる。断面は垂直、台形、あるいは逆台形に近い形態もある。時には階段状の足場が設けられた例もある。
 縦坑の底面から、水平方向に横穴が穿たれる。この横穴はさらに奥に続く主室への通路に当たる部分であるが、高さ・幅五〇から八〇センチ、奥行き六〇から八〇センチときわめて狭く、潜り抜けるのは一苦労だったと思う。
 通路の奥には少しく広い部屋が設けられている。これを主室と呼んでおこう。主室の規模はさまざまだが、平面観は台形か方形、台形の場合は通路側の前壁よりも奥壁の方が広い。一般に縦長であるが、縦横の比率が同じか、時にはやや横長の例も知られている。通路部と主室を一連の形態としてみると、平面観は羽子板のように見える。主室の縦断面は長方形であるが、横断面は天井がアーチ型に湾曲しているため、蒲鉾型に近い。床から天井までの高さは一・二メートルほどで、歴代日本人の中でも最も身長が低かった江戸時代人といえども、普通に直立して歩くことはできなかったろう。主室の四壁には、壁の中ほどの高さに円形の小孔が並んで穿たれている。これは丸太のような材を挿入して架け渡すのに用いたと思われる。
 縦坑と部屋との関係であるが、一つの縦坑から一つの部屋が掘り込まれている場合もあるが、多くの場合、一つの縦坑から複数の部屋が派生する。その数は二室から多いものでは八室にもなる。

<<前頁へ      次頁へ>>