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酒論稿集
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江戸の地下式麹室 古泉 弘(東京都教育委員会学芸員)
なぜ麹室と考えられるか
 先に述べた一九三四年の「お茶の水の地下室」発見当時、まだ地下式麹室を記憶していた人々もおり、具体的な形状を述べている。さらに遡る一八九三年には、草創期の考古学者坪井正五郎が、朝日新聞紙上に当時の麹室の特徴を紹介している。それによれば(1)地上から一丈ほど下に横穴がある。(2)殆ど正方形の室がある(男穴ないし男室という)。(3)一室より他室に入る口が小さい。(4)天井の高さは五尺未満である。(5)室の幅は七・八尺である(中央に通路を残し、左右に麹蓋を並べるための竹棚を設ける)。(6)天井は少し丸みを帯び、壁面は殆ど直立する。(7)壁面上部に灯火皿を置く凹みがある。(8)壁面下部に多くの小穴がある。(9)灯火によって天井が煤けて黒味を帯びる。I(10)正方形の室のほかに上方への抜け穴状のものがある。(11)室内には柄の短い鍬で掘った跡が残る。といった特徴がある。また、『安政見聞誌』には、江戸の麹室は「穴室」で、幅一間半、長さ一〇間程度、四方は竹垣のようにして土の間に藁を詰め、天井には横に丸太を架して筵を敷き、その上に土を置くと記されている。
 規模や構造などに若干の差があるものの、これらの特徴は、一瞥して発掘された地下室と類似している。構造上、保温・保湿に重点が置かれたことがわかる。麹は「麹蓋」と呼ばれる低い箱で培養されるので、麹蓋を重ねて縦坑の梯子を上り下りし、狭い通路を通って、出し入れすることもできる。主室の中では壁に穿たれた小坑を利用して架した棚に麹蓋を置いたのであろう。
 岩淵令治は、文政年間の『町方書上』に掲げられている本郷春木町および明治六年の実態調査の資料から、本郷付近発見の麹室遺構との形態・規模との一致を指摘している。さらに後者の資料では、大半の麹室が一つの縦坑に対し、主室の数は一、二箇所であり、三、四年を経過すると傍らより掘り替えることが記されている。発掘された麹室に、三、四個所もの多数の主室が派生しているのは、必ずしも同時性を示すものではなく、掘り替えの結果であることを示唆している。これは先に述べたように、地下式という構造上、通風の問題から雑菌の繁殖と不可分の関係にあったからであろう。

麹室の分布
 貞亨四年(一六八七)刊の『江戸鹿子』、元禄一五年(一七〇二)の『国花万葉記』には、麹屋の所在地として西久保通り―北は天徳寺前より南へ本札辻まで(西久保かわらけ町二丁、赤羽、三田町、通新町)、麹町一一丁目、湯島明神前、芝、狸穴、増上寺切通しといった各地の名がみえる。さらに享保二〇年(一七三五)刊の『続江戸砂子温故名跡誌』には、「本江麹、本郷湯島より江府の酒、みそ麹多く出る。芝辺の麹は増上寺切通しのうへ、三田の辺より出る」とされ、下町は湿地であるのに対し、本郷や三田の辺りは土地が高燥で、麹室を造るときに水の心配がないからであると述べられている。安政二年(一八五五)の大地震の様子を記録した『安政見聞誌』にも、同様の事情から神田、本郷、湯島の辺りに味噌屋の麹室が多いと記されている。
 このように、麹室の立地については江戸時代から水の影響がないことが必須条件であったとの認識があり、事実麹室の所在地はいずれも台地上にあったことが知られる。現在までに発見されている麹室遺構は、千代田区麹町(尾張藩麹町邸跡、麹町六丁目遺跡、隼町遺跡)、新宿区三栄町、同市谷本村町、文京区内では本郷、湯島、駒込、小石川など(本郷湯島遺跡、湯島貝塚、本郷元町遺跡、駒込追分町遺跡、小石川伝通院前)で、主室の数にして五〇基ほどが知られている。芝付近の検出例を聞かないものの、文献にみられる範囲とほぼ一致する広範な台地上に分布している。このほかにも、かつて工事中に発見された例も多数あるらしい。麹室は、ただ水の影響がないことのみが条件なのではなく、素掘りの地下室が掘削可能な土地である必要があったのである。

麹室遺構の年代と形態
 発掘される麹室では、遺構内から出土する遺物が非常に少ない。生活遺構ではないからであろう。したがって、遺構の年代をはっきりと捉えることが難しい場合が多い。しかし、ほかの遺構との重複や配列関係から、ある程度の推定が可能な場合もある。まとまって検出されている文京区の駒込追分町遺跡例は、おおむね一八世紀の後半から一九世紀前半の所産と考えられている。
 一方、千代田区尾張藩麹町邸遺跡から検出された一連の麹室遺構は、尾張藩拝領以前の町屋―麹町―に属すると考えられ、一七世紀前半頃に構築、使用されていたと推定されている。「麹町」の町名の由来に根拠を見出すことができる遺構群といえる。この麹室遺構の構造・形態は、おおまかには本郷付近の遺構と共通するが、また、異なった特徴をも備えている。最大の相違点は、主室の平面形が正方形に近いことで、すなわち、幅と奥行きの規模が拮抗しており、時には幅の方が奥行きよりも長い例もみられる。規模も小振りで、本郷付近の麹室の主室がおおよそ一四平方メートルほどであるのに対し、麹町例では五から一二平方メートルほどである。
 両者の相違が年代差によるものか、地域差によるものか、あるいは両者が複合した結果であるのか、にわかに断定はできない。しかし、市谷本村町遺跡から検出された二基の麹室遺構は、主室が細長い台形を呈する「本郷型」の遺構であるが、いずれも一七世紀末葉から一八世紀前葉とされている。このことから、一七世紀中葉以降に、主室の短い「麹町型」から、主室の細長い「本郷型」へ変化していった可能性も否定できない。


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