時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

 
<論稿集トップへ

20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
宮水の沿革
宮水最初の危機
 第一次世界大戦後、海に近い井戸の宮水成分に塩分が急に増えはじめた。翁の危惧していた通りになってしまった。その結果が第一次撤収地帯を生み出した。宮水地帯が縮小しても、宮水の需要はそれに合わせて減ることはなかった。
 大正六年頃には、電動ポンプによる宮水の汲み出しが始まった。より大量の汲み出しが可能になり、このことは次のような深刻な問題を起こした。それは、宮水地帯の住民たちの飲料水にも影響が出始めたのである。冬場の三ヶ月間、付近住民たちの井戸が枯れ始めたのである。この渇水対策として、飲料水の配達をせざるを得なくなった。町当局は宮水土管一間当り三〇銭を酒造家から徴収して、約三〇〇〇円の予算をもってこれにあたった。これから逆算すると、宮水土管は総延長約一八qであったらしい。
 それだけで問題が解消した訳ではなかった。住民の不便は、そのままであった、そこで、酒造家一三代辰馬吉左衛門(五〇万円)・八馬兼介(三〇万円)が寄付を申し出て、工事費総額一二〇万円での上水道の開通をみることとなった。西宮の上水道は宮水資源を守るために造られたのである。
 その頃には、水船にもタンクを積むものが現れ、水を汲み上げていた淡路の人達とか、水船を操っていた伊吹島の人達の姿が少なくなっていった。宮水使用量は増大し、湧出量を超える年が続くようになっていった。水質の変化をも危惧されてきた。
 そこで、宮水保護調査会(会長は県知事)を発足させた。地質調査を京大の小川琢治理学博士(湯川秀樹の父)、水質調査を同じく京大の松原厚理学博士に委嘱した。大正一四年から昭和三年までの期間に地質・水質調査は勿論のこと、新宮水と称して人工宮水まで造った。それで醸造した酒のきき酒会まで催した。
 その後、昭和大不況の影響で酒の販売量が低下し、この会の活動は伝承として伝えられるにとどまってしまったが、『宮水保護調査會顛末書』として、詳細な報告書がのこされている。その顛末書の内容に少し触れてみよう(写真2)。
 松原厚先生の「宮水保護調査第一期作業報告(水質竝ニ伏流に關スル部)」のなかに、
「地下水ニ於ケル硬度ノ分布ハ、石灰質地層ノ分布ト甚ダ密接ナル關係ヲ有ス、西宮市ノ如キ平坦ニ近キ地域ニ於テ特ニ然リトナス、此ノ故ニ前記ノ地域ニ於テモ、宮水區域ニ於テ行ヒシト同様ニ硬度ニ關スル一齊分析ヲ行フトキハ、其レニヨリテ、其地域ニ於ケル石灰質地層ノ分布ヲ推知シ得ヘキ好乎ノ参考資料ヲ得ヘキコト明ナリ、然リト雖、之ト同時ニ炭酸ノ給源ヲ闡明スルニ非レハ未タ以テ硬水成生ノ機作ヲ把捉シ難シ」
と、ある。
 これから推察するに、石灰質地層すなわち貝殻層の如き地層を先生は予断していたのかもしれない。この調査費用は酒造家達が、大正一三酒造年度から昭和二酒造年度にわたって各年度の製成石数に応じて拠出している。
 昭和に入っての阪神間の水害は谷崎潤一郎の『細雪』に描かれた「昭和一三年大水害」が有名であるが、西宮に於いては、その前の昭和九年「室戸台風」の被害が甚大であった。大潮の被害により第二次宮水撤収地帯がつくられ、宮水地帯は現在の場所にまで縮小してしまった。
 余談だが、昭和一三年の時には西宮市は親水公園として「夙川公園」を完成させていた。都市計画法に基づくこの公園は広範囲な市民が受益者負担として費用負担に応じている。この公園が機能して、被害を最小に抑えたのである。

<<前頁へ      次頁へ>>