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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論
3 禁酒思想の輸入
 アメリカで禁酒会が組織されたのは19世紀初頭である。禁酒運動は比較的富裕なプロテスタントを中心に展開され、貧困層の生活を管理した。彼らは開港後の日本に布教目的で訪れ、大人と子供の分別無い喫煙や飲酒、裸体など、それまでの日本では当たり前のように行われていたことを非難した。
 明治10年代になると、プロテスタントは教義を正しく理解されず、知識人層の自己表現を満足させるために利用されたため、一般民衆からの反発を受けて布教に失敗した。そこで彼らは布教方法を禁酒運動やその他の社会事業に切り替え、禁酒をするためにはキリスト教に入信しなければならない(森岡、1976、173頁)、あるいは社会事業の担い手こそがキリスト教であると強調することによって、1般民衆への浸透を図った。
 実際、1886(明治16)年にはボストンの世界婦人禁酒会名誉書記であったレヴィット女史が来日して、矢島楫子を中心とする東京婦人矯風会の設立に寄与した。また、1890年には米国婦人禁酒会のアッケルマン女史が来日して、安藤太郎と根本正を中心とする東京の大日本禁酒会設立に貢献した。1892年にも、世界禁酒会会頭のウエスト女史が日本各地で遊説し、学農社から1895年に津田仙の訳で『青年健康学』という禁酒・禁煙の手引書を出版している。また、各地のキリスト教会や禁酒会では飲酒と喫煙の害を説く幻灯会がしばしば催された。幻灯会のフィルムは、飲酒で堕落する人の姿を映し出すことで、入場者に恐怖心を植え付ける役割を果たしていた。
 これらの教えは必ずしも教会からの一方的な押し付けとは言えない。飲酒量の増加を背景として、大衆新聞にも酒癖の悪い婿が妻の兄に暴力を振るった記事や(1)、酔っ払って2階から転げ落ちたために右腕を骨折した記事などが掲載されており(2)、飲酒問題が社会的に高い関心を持たれていたことを確認できる。
 そして、キリスト教内外の禁酒運動が活発化した1880年代中頃以降、1人当たりの飲酒量は急減した。ただし、これを直接に禁酒運動の成果として認めることはできない。この時期は松方デフレによる不景気であり、国税の歳入不足を補うために清酒一石当たりの酒税が1878年の1円から1880年に2円、1882年に4円へと引き上げられたため、酒類の消費が抑制されていた。アメリカの禁酒思想は、この不況感の中でキリスト教の教義よりも社会事業の側面を強調することにより、庶民の節約意識に入り込んでいった。
 そして1890(明治23)年頃に、禁酒会の数は全国で100以上にのぼった(3)。京都に本部を置く反省会の2万人を最大として、東京禁酒会が1800名、千葉県の北総禁酒会が1400名、北海道の札幌仏教青年会と北海禁酒会、神奈川の日本禁酒会がそれぞれ約1000人ずつであったが、それらを除く大半の禁酒会は100人未満で構成されていた。
 なお、ここに紹介した大規模な禁酒会の中で、反省会と札幌仏教青年会が仏教系、北総禁酒会が非宗教系、その他がキリスト教系である。反省会が大規模化に成功したのは、大谷派本願寺を母体とすることと、入会資格を絶対禁酒とするキリスト教系と異なって、終身禁酒、年限付禁酒、仏事修行の時に限った禁酒、無用の宴会を廃止すること、下戸が付き合い酒をやめることのいずれかへと緩めたからである(4)。江戸時代まで飲酒を問題視していなかった仏教がキリスト教の煽りを受けて禁酒運動を開始した理由は、檀家を確保するためであった。だが、大谷派が禁酒運動を自ら展開したことは、単に禁酒会の会員を増やしたにとどまらず、全国的に飲酒を悪徳と認識させる上で重要な役割を果たした。

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