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20世紀の酒文化

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貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

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江戸の地下式麹室

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明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
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北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
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酒論稿集
酒の文化論
近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論
4 自家醸造の犯罪化
 さて、近代の禁酒運動は、教育・健康上の問題と貧困問題を主な思想的根拠にしている。運動の開始直後はキリスト教の影響で前者の考えが主流であったが、日清・日露戦争による増税によって庶民の生活が悪化すると、後者の考えが強調されるようになった。
 日清戦後に、政府は日露戦争に向けた軍事費拡張に伴う歳入不足を補うため、国税の主要税源である酒税を1883(明治16)年の一石当たり4円から、1896年に7円、1898年に12円、1901年に15円へと引き上げた。酒税の増税は市場価格を高騰させ、結果的に消費量の減退とそれに伴う税収の減少を招く危険性がある。このため、政府は自家用料酒の製造を禁止して、清酒市場の拡大を狙った。
 これ以降、庶民は安い濁酒を公然と造れなくなり、酒を飲むためには濁酒を密造するか、危険を冒してメタノールなどの悪酒を買うか、あるいは高額な清酒を買わざるを得なくなった。以上3つの選択肢はいずれも禁酒運動の必要性を説くに充分であり、濁酒密造は酒を犯罪の動機に、メタノールの飲用は酒を病気の原因に、高額な清酒の購入は酒を貧困の発生源に結びつける根拠となった。
 そこで飲酒は社会問題として認識され、政策的介入を受ける。1908(明治41)年に感化救済事業が、その翌年から地方改良事業が内務省主導で開始され、精神的堕落を予防して貧困問題を解決する試みがなされた。この政策で、飲酒は犯罪と貧困の原因として問題視された。内務省の井上友一(1909、513頁)は、アメリカにおける犯罪・貧困対策費のうち飲酒に起因するものが約75%に達するとして、日本における節酒の必要を説いている。
 この見解は飲酒問題を酒飲み個人の責任とするが、現実の飲酒問題は自然発生したのではなく、酒造政策の転換と禁酒思想の輸入に伴う飲酒規範の変化に強く起因する。内務省はこの矛盾を無視して、飲酒問題の原因を庶民に転嫁することで自らの責任を否認し、歳出増大の被害者を装ったと言ってよい。柳田(1993、239頁)も同様に「酒が忘我の境に誘うことは、近ごろ始まった悪徳でもなんでもない。近ごろ始まった現象は居酒(5)と独酌の連続、それから酒が旨くなりまた高くなったことと、また国家が小民の何を飲んでいたかを、ついうっかり忘れてしまったことである」と、政府批判をしている。だが、「うっかり」では済まされないほどに、飲酒に対する拘束は強まり、社会的な混乱を及ぼした。なぜなら、飲酒問題に政治が介入したことにより、禁酒会はそれに圧力をかけることで、自らの事業を従来の個人参加から国家による強制へと拡大することに成功したからである。その最も大きな事業が禁酒法の制定であった。

5 未成年者飲酒禁止法の制定過程
 現在、未成年者飲酒禁止法(以下「禁酒法」と略)は一般に青少年への教育的配慮として認識されている。しかし、この法律は元来、日本から酒をなくすために禁酒会から提出された。これは1見すると対象が未成年者に限られているため、成人を対象とする禁酒運動と切り離して考えなければならないように感じられるが、実のところは、青少年教育が成人をも感化するという展望と、いったん制定された法律がそれ自体で前例となり、一層制限の厳しい法律制定の根拠になりうる性質を巧みに利用している。
 禁酒法案の提出者は茨城県出身の衆議院議員であり、かつキリスト教系の東京禁酒会副会長・根本正である。この法案は未成年者喫煙禁止法(以下「禁煙法」と略)制定の翌年、つまり1901(明治34)年の第15帝国議会に提出された。両法案ともに根本によって提出されたが、禁酒論者の彼にとっては後者の方が重要である。禁煙法案を先に提出した理由は、国会内で道徳規範の法制化に反対意見があったため、実施の容易な禁煙法案を先に制定し、それを禁酒法案の法的根拠にしたかったからである。喫煙に対しては路上での現行犯逮捕が可能であるが、専ら室内で行われる飲酒は確実に取り締まる手段がない。
 政府委員の見解に目を向けても、同じ第15回帝国議会の衆議院委員会で、内務省の大森鍾1は飲酒の取締が喫煙以上に難しいと述べた上で、その役割を法律ではなく学校に担わせてみてはどうかと提案し、文部省の梅謙次郎はこの法案が社会規範の善悪を法律の有無によって判断する風潮を生み出すのではないかと危惧している(6)。この他、他の議員による反対も強く、結果的に未成年者飲酒禁止法案は否決された。
 その後、この法案は根本によって10年以上提出され続け、1922(大正11)年の第44回帝国議会にてようやく可決制定された。実はこの年も政府委員や他の議員から強い反対を受け、否決される雰囲気であったが、賛成派議員は反対派議員を委員会から閉め出し、半ば強引に国会を通過させてしまった。
 さらに禁酒会は、山口政二と長尾半平の名前で1927(昭和2)年に未成年者飲酒禁止法中改正法律案を提出し、禁酒の対象を現行の20歳から25歳に引き上げようとした。山口によると、禁酒の対象を25歳未満にすると、それ以上の年齢に達してからも酒を飲まなくなるという(7)。ここで、未成年者飲酒禁止法本来の目的が明らかになった。それは、現在考えられているような教育目的ではなく、キリスト教系禁酒会が法律の力を借りて日本の飲酒習慣を廃絶させるためのものであった。
 結果的にこの改正法案は否決されたが、その弊害が残ったため、柳田は一連の禁酒運動を批判している。「最近の禁酒運動者が選擇した手段方法は、巧妙であるけれども親切でない。25歳の青年がまだ徹底して酒の不利を理解し得なかった場合に、もしこの様なる法律の勵行によって、一々その日常の私生活を監督せられるとしたら、彼等は法治國家の獨立した臣民として、果して如何なる態度感想をもってこれに對することになるであらうか」(柳田、1963、427頁)と。
 しかも、この禁酒論を展開した老人は1870年代に青年期を過ごし、飲酒方法を乱れさせた張本人である。「そんな者の反對は顧みるに足らぬと共に、賛成しつつもまた少しも意味がない」(柳田、1963、428頁)。彼らが行ったことは、自ら招いた若き日の失敗を青少年に責任転嫁する矛盾を孕んでいた。だが、そのために禁酒法違犯で多数の青少年が検挙され、不良少年や犯罪者といったレッテルを貼られた。このような矛盾を増大させないために、柳田は飲酒を法律で規制するべきものではなく、個人の管理に任せるべきだと主張した。その具体的な方法が、女性による酒の管理であった。

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