時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

 
<論稿集トップへ

20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論

菅江真澄の記録にみる「酒」
3、「七里酒」
菅江真澄民俗図絵 上巻(岩崎美術社より) 酒を愛する読者諸兄姉は、この図絵の中の、上の軒下にある看板の「七里酒」をどんな酒のことだとお思いになるだろうか。
 この「七里酒」の看板を、紀行『蝦夷(えみし)の佐伯(さえき)』寛政元〔一七八七〕年六月七日条、蝦夷地〔北海道〕の江差にいた真澄が見つけて描いている。

 「門の外に並(な)み立つ家居の、障子に書きし『七里酒』てふものは、いかなる酒をか云ふ」
とその宿の主に問へば、うち笑みて
 「この島に稲田無く、米(よね)は異国(ことくに)より渡りて乏しければ、濁り酒造れることをいみじう止め給ふ島の法(のり)〔禁令〕なれば、この濁り酒と言ふことを秘め隠して、しか『七里酒』てふことは、二里五里(にごり)の酒なる心〔意味〕を、人に読み解かせて売り、或るは、酒と言ふ文字を濁りして、人に知らせ候ふなり」
とて笑ふ。
(『菅江真澄全集』第二巻、六六頁)

と、紀行の本文に見えている。「七里酒」は、埼玉県川越市の「芋の里、九里四里〔栗より〕うまい十三里半」の語呂合わせを思い起させるが、当時、蝦夷地では濁り酒を醸造することが御法度だったため、隠語として「七里酒」の語を用いたり、「酒」の字に濁点を施して「ザケ」と読ませて、「ニゴリ酒」を巧妙に表示した愉快なものである。
 随筆『筆のまにまに』巻三の「にごり酒」の項(『菅江真澄全集』第十巻、七八〜七九頁)には、〈出羽陸奥をはじめ、並(な)べて北国は濁醪を専(もは)ら醸(カモ)して売り、村々には民家にも造りぬ。この醇酒(コサケ)は往にし方ざまのものなり〉と書く。続けて、大伴旅人の「酒を讃むる歌十三首」の中から「価(あたひ)無き宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒にあに優(まさ)らめや」を引いたあと、巡回の役人が「七里酒」の看板を見て咎(とが)めた折、上戸の役人は〈渇きたる咽(のど)へ一椀(ヒトツ)飲みて、また、うち続け、大椀に三、四ツ飲みて〉、代金を払わなかったが、その後、咎め立てすることは無かったと人が語った、と真澄は記している。

4、酒のもてなし、酒の肴
 紀行『牧の冬枯れ』の寛政四〔一七九二〕年十二月十九日条(『菅江真澄全集』第二巻、三〇〇頁)、青森県下北郡大畑町で、白髪の老女が「かいしき」という雪掻きのスコップを杖代わりにして、

 「こは、如何にぞや、何処にか行かれん。この吹き〔吹雪〕凍(しば)れに…」

と、雪の中に歩みを進める旅人の真澄に声を掛けてきた。そして、
 「うざねとりて〔真澄註=辛労をいふなり〕…、行てん〔吹雪の中を行く〕よりは、汚(きたな)げなりとも、一夜、泊まり給へ。夕餉(ゆうげ)には、稗(ひえ)の飯にて 申さん〔ご馳走しましょう〕。なる人〔酒のいける口の人〕ならば、稗(ひえ)にて醸(かも)したる酒、勧めん。また、蕎麦(そば)の餅(もち)やあらん。わあゑの〔真澄註=わが家のなり〕狭くとも、へがら〔真澄註=稗の殻なり〕、へりなし〔真澄註=菅筵なり〕、敷き重ねて、寒くとも【夜を】明かして…」

と、熱心に誘った。真澄は、「陸奥(みちのく)の十府(とふ)の菅薦七府(すがごもななふ)には君をしなして〔休ませて〕三府(みふ)に我寝ん」という和歌(藤原仲實『綺語抄』中に所収)の心ばへ〔趣意〕と等しいものだと怪しみながら、「添い寝」の歓待があったのか無かったのか明かでないけれど、老婆が旅人を饗応しようして列挙する中に「稗酒」があった。真澄は、まさか酒で身体を暖めたいと思った訳でもあるまいが、とにかく宿の提供を受けることになる。夕食後、小夜更(さよふ)けるまで焚(た)き火の傍にいると、「これ、食ひね」と、稗粢(ひえしとぎ)〔稗の粉で作った焼き餅〕を焼いて、折敷〔盆〕に盛って出してくれた。空腹ではなかったので手は伸ばさずじまいだった。はたまた、「稗酒」の方がよかったという訳でもあるまいが。
 紀行『率土が濱つたひ〔外が浜伝ひ〕』の天明八年〔一七八八〕七月八日の条には、青森県東津軽郡で

 雨風の猶激しう、潮霧(しほきり)と云ふもの、窓より吹き入りて、いや寒きに、主の専女(とうめ)〔老女〕、「何良けん」とて、潜阪(くぐりざか)の海栗(かぜ)〔キタムラサキウニ〕に青杜〔青森〕の巨波久漬(こはくづけ)〔ホヤ漬〕と云ふものを持て、酒しゐぞし〔酒を勧めたり〕など、時移れど、つゆの天晴れも無う、え出で立たず〔出立できずに〕…。
(『菅江真澄全集』第一巻、四六一頁)

と、旅の宿に酒を飲む真澄がいる。ほんとうに雨風が止まなかったのか、それとも…、いつまでも腰を上げられなかった。北の港の小さな酒亭〔サカヤド〕で、ウニやホヤを肴にして一献呑りたいものだ。


<<前頁へ      次頁へ>>