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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
中世人と酒
(二)酒と饗応
 もてなしに酒がつきものなのは、いつの時代も変わらない。とくに、古代〜中世の社会では、都から赴任してくる国司、熊野・伊勢等の遠方への参詣から帰ってきた者などを、国堺や村堺まで出迎えて、酒食の饗応をすることになっていた。坂迎(さかむかえ)(堺迎・坂向とも表記される)と呼ばれる習慣で、日常的な生活空間に、非日常の世界から来た者を迎え入れる境界儀礼と考えられている。荘園においても、国司や領主の使者が下向してきた際に接待が行われたが、これは次第に制度化され、百姓が負担する万雑公事(まんぞうくじ)と呼ばれる雑税の一部となったのである。到着後三日間にわたって使者をもてなし、引出物を出すのが正式の形で、「三日厨(みっかくりや)」「落付三日厨(おちつきみっかくりや)」と称した。使者にとっては大きな利得であるから、年貢徴収・作柄調査等、さまざまな機会に接待を要求したが、百姓にしてみれば過大な負担にほかならず、両者のあいだで紛争のもととなっていた。
 元弘三(一三三三)年、備中国新見(にいみ)荘に国司の使者が入部した際の、接待に要した品目とその費用の一覧が残っている(東寺百合文書ク)。

一、米六斗六升四合 馬粥加定 
   人数八十三人内 上二十一人、下六十二人
   十二月十九日夜中打入云々、
一、豆二斗三升   馬豆   
   馬二十三疋内 三疋引馬
一、清酒二斗五升  朝夕分  
   酒直五百文 百文別五升宛
一、白酒七斗二升  朝夕分  
   同直物四百二十二文
一、莵二            代百九十文
一、鳥二            代二百十文
一、スルメ一帖         代四十五文
一、大根五把          代二十五文
一、大魚一           代八十文
一、三貫文     国司使引出物 下行之、
   以上 四貫四百八十文

 さまざまな名目の使者が二一人と、それに随行する下部が六二人、総勢八三人と馬二三頭の世話をするのだから大変である。威張り散らして飲み食いする機会として、このような一行に参加したがる者は多く、人数は不必要に膨れたことだろう。しかも朝夕の食事には清酒・白酒(濁酒のことか)がついている(清酒の価格は白酒の三倍以上で、だいぶ高級である)。国司の使者には引出物代として三貫文が与えられたとみえ、一貫文が現在の一〇〜二〇万円ぐらいにあたるから、かなりの役得といえよう。下部らが、百姓の家に押し入って狼藉をはたらくことも多く、接待を強要して百姓の負担をふやさないようにとの法令はたびたび出されたが、あまり効果はあがらなかった。
 建仁元(一二〇一)年三月、大和国吐田(はんだ)荘において、東大寺華厳会饗料米(けごんえきょうりょうまい)の徴収に関わる問題が発生した(内閣文庫所蔵大和国古文書)。現地で経営にあたる尼真妙が、不作を理由に納付の半減を願ったために、官使・寺使が調査に派遣されたところ、暴行を受け、追い払われるという事件がおこったのである。寺使の訴えに対して真妙は、多少の混乱があったのは確かだが、私は現地の責任者として酒肴を与えてもてなし、使者たちもたいへん喜んでいたと陳述した。寺使側は、以下のように反論している。当日は終日の大雨で、一日がかりで鼻水をすすりながら吐田荘に下向しました。このような使者は、食料等を携行せず、目的地において接待をうけるのが通例です。一行一〇人ばかりで疲れきって到着したところ、一粒の飯もなく、一言のねぎらいもなく、わずかに酒一瓶をだしてくれたにすぎません。その酒を飲む暇もなく半死半生のめにあわされ、泣きながら逃げ帰った次第です。なんとも哀れな顛末だが、食事と酒による接待が、荘園をめぐる内と外とのコミュニケーションの重要な要素となっていたことはあきらかである。
 逆に、領主の要請によって、百姓らが人夫をつとめたり、季節ごとの産物を届けたりする場合には、領主が接待する側になる。これについても、支給される飯の量が減ったとか、以前は飯酒で饗応してくれたのに、最近は酒肴のみで飯がでてこないのは“遺恨”であるなどの不満が述べられた例がある。快適とはいえない、むしろ積極的に辛い旅のなかで、誰もが目的地で供される酒食を楽しみにしながら、歩を進めたことだろう。まさに食べ物の恨みは恐ろしいのである。

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