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戦前期朝鮮半島における邦人酒造業の地域的展開と特質

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酒論稿集
日本の酒の国際化
戦前期朝鮮半島における邦人酒造業の地域的展開と特質

結 語
 近代前の「朝鮮の酒」は、マッコルリに代表されるように「家の味(自家用酒)」であり、酒幕などによる局地的な商品生産であった。そして、併合後は、内地同様、米生産の再生産装置としての酒造業経営が地主を中心として行われ、集落内や小作人向けへの局地的な酒造がおこなわれていた。このことがひいては、限定的・原始的ではあったが、在地の地主、商人層の成長を基礎づけたものと考えられる。このことが朝鮮半島においても、近代酒造業が民間資本によって展開する可能性が残った要因ではなかろうか。
 繰り返しになるが、結果的に、内地酒造業にとって、朝鮮半島は、排他的市場、排他的原料供給地ではなく、同時的な成長過程にあった邦人酒造業と競合する地域であった。このことがその後の内地酒造業の進出先を、関東州、満州などへ向けていった要因となっている可能性がある。例えば、奉天市には邦人資本の酒造企業として、満州酒造株式会社、満州千福酒造株式会社、八王子醸造工業株式会社、あり、また、麦酒企業として満州麦酒株式会社、亜細亜麦酒株式会社が進出していた(荘司小太郎『旧満州国全県略史』宏文社、一九七九、五七頁)。後にわが国最大の清酒企業に成長する伏見の大倉酒造(月桂冠)も外地への進出は遅く、一九三九(昭和一四)年に奉天(審陽)に醸造工場設立計画を立てたのに始まる。同社は翌年に憮順で可末醸造株式会社(生産量二五〇〇石)、一九四二(昭和一七)年には清州で高見酒造(同一五〇〇石)、北京で大丸豊台醸造を設立、一九四四(昭和一九)年には北京で大裕醸造を設立するなど大陸進出が急であった(月桂冠株式会社『月桂冠350年の歩み』、月桂冠株式会社、一九八七年、一三二〜一三八頁)。樺太では昭和7年に酒醸造場が四六場あり、「清酒、酒精益々品質向上し、移入酒を駆逐すべく努力中である」状況にあった(樺太庁『昭和10年樺太要覧』樺太庁、一九三五、二四八〜二四九頁)。
 戦前期における邦人酒造業の地域的展開については明らかになっていないことが多い。しかし、わが国の酒造業がかって大陸市場へ雄飛を図り、日本酒の普及に乗り出していった時期があることを今一度、近代酒造史の中で位置づける必要があるのではなかろうか。残された時間はそう多くないと思われる。何らかの情報などいただけることを念じて本稿を結ぶことにする。

脚注
(1) 藤原論隆男「再編期における酒造業経営の展開」東敏雄・丹野清秋『近代日本社会発展史論』ぺりかん社、一九八八、一三四〜一三五頁。
(2) 八久保厚志「戦前期朝鮮・台湾における邦人酒造業の展開」神奈川大学人文学研究所、人文学研究所報、No.三六、P一三〜P二四 二〇〇三
(3) 近代酒造業に関する研究は、藤原隆男による一連の研究があげられるが、本稿との関連に絞れば(1)「初期帝国議会下の酒屋会議」岩手大学教育学部研究年報、三六、一九七六、一〜二五頁、(2)「一八八〇年代における酒造改良運動の展開とその性格」岩手大学教育学部研究年報三四、一九七八、五一〜七七頁、(3)「明治末期における酒造体制」岩手大学研究年報(経済学)四四四、一九八三、六七〜七九頁、(4)「酒造検査制度成立の歴史的意義」酒史研究二、一九八五、二三〜四五頁がある。地理学からの研究について本稿との関連では、拙稿(5)「近代酒造資本の形成期についての一資料」法政大学地理学集報一三、一九八四、二五〜三一頁、(6)「近代酒造業の類型化についての一試論−会津酒造業の事例」法政大学大学院紀要二〇、一九八六、(7)「大正期における会津酒造業の市場展開−東京市場進出過程を中心に−」経済地理学年報四〇−二、一九九四、三五〜五一頁、(8)松井久美枝「伏見酒造業の展開−一九世紀中期より二〇世紀初期にかけて」研究年報(奈良女子大学)二三、一九八〇、七七〜一〇〇頁、(9)山中進「秋田県湯沢市における酒造業・製材工業の地域的展開(明治期〜昭和初期)」東北地理三一−三、一九七九、一四七〜一五五頁、I青木隆治「近世・近代における埼玉県清酒業の形成過程」地F理学年報四三、一九九七、一〜一七頁等がある。
(4) 朝鮮半島における酒造りに関しては、(1)鄭大馨『朝鮮の酒』築地書館、一九八七、(2)清水武経編『朝鮮酒造史上下』朝鮮酒造協会、台湾については(3)石田信夫『海のかなたに蔵元があった』時事通信社、一九九七、がある。
(5) 朝鮮における醸造業を資本別にみると五人以上の工場の場合、一九一七年には一一七工場の内一〇八工場が日本人であり、七六が民族資本であった(趙機督・余龍達訳『近代韓国経済史』、一九八一年、三九四頁)。全体では一万三三一七工場の内日本人七〇〇、民族資本六〇五工場あり、均衡しているが醸造業は日本人が卓越している。これは醸造業の大半を占める酒造業の担税商品生産業として管理の簡便性によると考えられる。また、趙はこの異なりについて、「比較的巨額の資本が要求されるかであるか零細な民族資本によって設立が困難であったかであろう」としている(前掲 趙機督、一九八一年、三八三〜三九六頁)。ただし、五人以下の工場が大半を占める酒造業についてはつまびらかではない。一九二〇年代は食品工業全体では民族資本は五六・八%を示すまで成長する。この成長は零細な庶民の資本によって主導された。趙は「一九一八年に終了した土地調査事業の結果、地主階級が登場し、米穀の対日移出が増加するに伴いこれら地主が貨幣資本を持つようになり、近代企業に調達される契機になった」としている。また、農村部の自給経済が崩壊し、国内市場が拡大したこともあげている。民族資本として目立ったものは一九三五年に創業された朝鮮麹子株式会社(資本金三〇〇万円)本社京城、一九三六年塊山酒造株式会社(資本金七五万円)本社中北塊山郡、一九三七年東海醸酒(資本金七〇万円)全北感興などである(前掲 趙機督、一九八一年、四〇七〜四四一頁)。
(6) 聞き取り調査は灘、広島、伏見の産地及び岡山県、高知県等の清酒企業、鹿児島県、沖縄県、熊本県などの本格焼酎企業を中心に行った。特記しない限り「聞き取りによる」と表記する。また、わが国の焼酎については拙稿(1)「明治期における熊本県酒造業の展開−近代酒造業の基本的性格に関連して−」法政地理一四、一九八六、五七^六八頁、(2)「球磨焼酎産地の形成と市場変化−近在型工業の成長と存立基盤変化−」法政地理二四、一九九六、三六〜五〇頁、(3)「焼酎産地の形成と企業行動」法政地理二八、一九九八、一一〜二七頁を参照。
(7) 前掲F社の生産量(一・二万石)に限ってみれば、灘産地の辰馬酒造(約三万石)、西宮酒造(二・八万石)、山邑酒造(二・五万石)伏見の大倉酒造(一・六万石)等の次に位置し、伊丹の小西酒造に匹敵していた。
(8) 工業化における内地資本と民族資本の地域差について金子は台湾一九二五年八九・九%、朝鮮では一九二八年に四五・六%と試算している。金子によれば、日本の中小資本の進出に地域差が生じた要因として、農産物の加工・流通構造の差異を次のように指摘している。「台湾の小規模工場の大半は精米・籾スリでそこに日本資本は介入できなかった。それは台湾の商品経済と地主制が早くから発達し、零細な日本資本の参入を抑制する力が働いたためであろう。(中略)これに対し、朝鮮では米の支配が焦点になり、米の商品化が遅れていたため日本資本は精米工程に進出を図ったわけである。」この点が、台湾における民族資本の比率が高い要因であろうとしている(金子文夫「植民地投資と工業化」『岩波講座近代日本と植民地三植民地と産業化』岩波書店、一九九三、四五頁)。農業及び農村構造に立脚した酒造業もこのような地域差に規定されたと考えられる。

【プロフィール】
八久保厚志(はちくぼこうし)
1957年生れ、熊本県出身。法政大学大学院人文科学研究科地理学専攻博士課程修了(文学修士)。
現在、神奈川大学助教授。
著書に『日本経済地理読本』(共)東洋経済新報社、他。
論文は「大正期における会津酒造業の市場展開―東京市場進出過程を中心に―」経済地理学年報四〇-二、一九九四年、他。

月刊酒文化 2004年2月

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