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「おつまみ」の日米交流 意外史(1)ポテトチップ
 日本国内でポテトチップが売り出されたのは、第二次大戦後間もない一九五〇年です。三五グラム入りの袋詰めが三六円でした。 三六グラム入りが三五円の間違いではありません。三六円は当時の円ドル固定レートでちょうど一〇セントに相当します。
 「フラ印ポテトチップ」として売り出されたその製品は、もともと在日アメリカ軍向けに作られていました。製造販売元のアメ リカンポテトチップ社は東京の新宿区にあった日本の会社で、国産原料を使った作りたてのポテトチップは、アメリカから船で運 ばれてくる本場のものよりもおいしいと、アメリカ軍将兵の間で大好評だったとか。
 このため、ポテトチップをめぐって戦後初の日米貿易摩擦が発生、というのは大げさですが、当局から「バイ・アメリカン(本 国製品優先)」の通達が出て、同社は市場から締め出しを食ったのです。それで、やむなく国内販売に転じたというわけ。
 とはいえ、三五グラム入りの小袋が三六円という「直訳価格」は、日本の一般消費者には高すぎるものだったので、最初は都心 の一流ホテルや銀座のビアホールに売り込んだといいます。
 アメリカンポテトチップ社を設立した浜田音四郎さんは、もとは外国航路の船員。戦前、ハワイでポテトチップ製造に携わった 経験があり、大戦中はアメリカ本土の日系人収容所に入っていて、戦後、帰国し、在日アメリカ軍向けのポテトチップ製造販 売を始めたのでした。
「アメリカの兵隊さんは、ビールを飲むときは決まってポテトチップでしたよ」と浜田さんは話しています。
 ビアホールでデビューを果たした日本のポテトチップは、「ビールのつまみ」という定位置をしっかり固めたわけですが、そ のほかにもサンドイッチ、ハンガーガー、フライドチキンの付け合わせという定位置がありました。
 今でも、アメリカのちょっとひなびた場所に、ぽつんと建っている独立系のハンガーガー屋やドライブインでは、大きな業務用 の袋や缶から、一掴みのポテトチップを取り出して、肉料理の付け合わせにするのを見かけます。  スティック状のジャガイモを油で揚げたフレンチフライは、マクドナルドを始めとするハンバーガーショップや、ファミリーレ ストランが広まるとともに、おなじみの食べ物になったようですそれ以前には、日本でもサンドイッチやハンバーガーの付け合わ せとして、ポテトチップがレストランなどでも使われていました。
 日本でアメリカ式のファーストフードレストランが相次いで登場し、ファミリーレストンがチェーン展開を始めたのは一九七〇 年代前半ですが、これよりも少し前に、ポテトチップは、ビアホールやレストランに供給される業務用食品にとどまらず、のちに スナック菓子と称されることになる食品の先駆けとして店頭に並ぶようになります。ポテトチップの表面に青ノリをまぶしたもの が湖池屋から発売されたのが一九六二年。翌年にはオートフライ ヤーと呼ばれる製造機械が開発されてオートメーションが可能になり、生産力が一気に高まりました。 それまで東京で瓦煎餅を製造していた菊水堂がポテトチップに乗り出したのは一九六四年、東京オリンピックが開かれた年です。
 その後、米菓メーカー、大手の総合菓子メーカーも続々とポテトチップに参入、そして一九七五年、「かっぱえびせん」の大ヒッ トを放ったカルビーが加わります。
 さて、ここまで本稿では、ポテトチップと表記してきましたが、近頃ポテトチップスという複数形で呼ぶことが多くなっているよ うです。これには、現在ではトップメーカーであるカルビーの業界参入、その積極的なテレビCMが関係しているというのが筆者 の推測です。
 「やめられない止まらない」に続いて、ポテトチップでも印象的なキャッチコピーでCMを展開したカルビー。ポテトチップで はなくポテトチップスにしたほうが、上の句との関係で語呂がいいのです。
 ちなみに、食品衛生法や一九七〇年代に設立された業界団体が条文や団体名に使っているのは「ポテトチップ」で、ス(S)が ついていません。
 カルビーの参入後、日本のポテトチップ消費量は五年で三倍、一〇年で四倍に拡大しました。ポテトチップはビールのつまみと いう固定イメージを脱して、スナック菓子、子どものお菓子となったのですが、このアメリカ生まれのジャガイモの唐揚げに加え られた最初の日本的アレンジは、青ノリをまぶすことで、赤唐辛子がこれに続きました。これは、ビールのつまみとしてのポテト チップというポジションから発想されたことは明らかです。のちの「バターしょうゆ」「梅風味」「こんがり焼肉」「たこ焼き風味」 といった一連のバラエティものとは方向が違っています。もちろん、「わさビーフのポテトチップスは、発泡酒のつまみとしては 最高だよ」などと主張する人がいても不思議ではなく、ビールのつまみ向きかおやつ向けか、一概には決めつけられません。
 子どもに好まれるスナック菓子としての面を強めているポテトチップですが、袋を開けて皿の上に盛れば、嵩(かさ)があるので、なん となく座がにぎやかになり格好がつくという手軽さは、缶のままでも紙コップについで飲んでも様になるビールと、飲食のスタイ ルという点でもきわめて相性がよく、つまみとしての出番がなくなることはこれから先もないはずです。
 日本人にとってポテトチップは、最初から酒のつまみとして登場した、その歴史的事実を証明する文献があります。
 いまから約一三〇年前、成立して間もない明治政府の要人や各界のエリートたちが、日本近代化の青写真を求め、欧米一二カ国 を一年一〇カ月かけて視察する旅に出かけました。世に言う岩倉使節団ですが、この一行が、一八七二年(明治五)の旧暦五月一 〇日、ナイアガラの滝見物のあと、ボストンに向かう途中で、ポテトチップ発祥の地サラトガ・スプリングスに立ち寄り、二泊し ています。滞在二日目には、景勝地のサラトガ湖に涼を求めました。
 岩倉視察団の報告書『米欧回覧実記』にその時の様子が書かれているので引用します。
《山上ニ一亭アリ、此ニ休憩スレハ、主人「モーレン」氏酒及ヒ蕃薯ノ油煎ヲ供ス、是ハ蕃薯ヲ薄片ニ截テ、油ニテ煎熬セルモノ ニテ、此地ノ名産ナリトイフ》(岩波文庫『特命全権大使米欧回覧実記(一)』二八九ページ)
 この本の著者である久米邦武は、酒とともに供された土地の名産品を、蕃薯つまりサツモイモを油で揚げたものと思ったようで す。出された酒がビールだったのかワインかラム酒かウイスキーか、そこまでは残念ながら記されていません。
 さて、話を現代に戻すと、健康志向を強めているアメリカで、近ごろ人気のポテトチップといえば、有機素材、低脂肪、減塩の 三要素クリアしたタイプ。そして、この一、二年で増えているのは、サツマイモ、タロイモ、キャッサバ、ヤムイモなどジャガイ モ以外のイモ類を素材にしたチップです。塩味ではなく、甘みがついたものもあって、ビールのつまみには、あまり合わないよう な気がします。
 そう、日本では以前から駄菓子として人気のあるイモケンピやイモせんべいに似たものが登場しているのです。
 ところで、イモケンピやイモセンベイは、いつ頃から作られるようになったのでしょう。もしも『米欧回覧実記』の記述がヒン トになったのだとすれば、久米邦武の見立て違いが、日本版ポテトチップを生み、それは一世紀後のアメリカの流行を先取りして いたことになりますが、酒のつまみとはだいぶ話題がそれてしまうので、今回はこの辺で。

【プロフィール】
市川隆(いちかわ・たかし)
フリージャーナリスト。一九五一年生まれ。アメリカ・東アジアの各地を訪問取材。二〇〇一年後半よりロサンゼルス近郊パサディナ市に居住。
月刊誌『グッズプレス』(徳間書店)に「アメリカ・ニッポン消費生活解読記」を連載中。

お酒の四季報 2002年春号

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