時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

 
<論稿集トップへ

30代を迎える団塊Jr世代の酒

シニアにさしかかる団塊世代の酒

日本酒の味の客観的評価

酒マニアな人々への道程

酒米生産の現状と課題

おいしいカクテルをお出しするために

日本の酒税が歩んできた道

シングル化がもたらす飲酒風景

サトウキビから生まれた魅惑のお酒

変わる食卓・消えた晩酌

三井物産の清酒界進出

幕末サムライ使節の洋食・酒体験

日本酒を自家貯蔵する愉しみ

お酒で身体はどう変わるのか

「おつまみ」の日米交流
  意外史(3)あられ


「おつまみ」の日米交流
  意外史(2)枝豆


「おつまみ」の日米交流
  意外史(1)ポテトチップ


古き一升びんをたずねて
酒論稿集
その他
幕末サムライ使節の洋食・酒体験
シャンペンの音に驚く
 太平洋上では大嵐に遭遇した。
 それでポーハタン号は傷つけられた船体の修理と、嵐のために思いがけずに消費してしまった石炭の補給のためにハワイに寄港せざるを得なくなった。
 ところが、排水量がポーハタン号の4分の1しかないという咸臨丸の方は、何とサンフランシスコまで直行してしまったのである。日本人による太平洋横断どころか、この嵐を乗り切ってしまったのだから、これは一大快挙として賞賛されて然るべきなのだが、実は裏があった。
 咸臨丸にはアメリカ海軍の軍人が11人も乗り込んでいたのである。彼らは日本で測量中に事故で船を失ってしまったために、咸臨丸でアメリカに送られるいわば客分であった。
 だから操船に手出しはしないという約束だったのだが、嵐ではそんなことは言っていられない。こんな時の訓練は受けていない日本人に代わって操船した。日本人はほとんど役に立たなかったという。
 さてサンフランシスコの様子だが、「インターナショナル・ホテル」について、咸臨丸組の福沢諭吉の書いたものがある。
 まずホテルの部屋がじゅうたんで敷き詰められているのに肝をつぶした。日本でなら金持ちしか持てない、高価な紙入れに使うような布を惜しげもなくふんだんに使っているのだ。しかもその上を土足で歩いているのだから、これには言う言葉もなかった。
 次に驚いたのはシャンペンだった。徳利のようなびんの口をあけると恐ろしい音がしたのだ。さらには、これを注いだグラスの中に氷が浮かんでいるのにはまたまた驚いた。こんな暖かな季節なのに氷があるなんて、思いもよらぬことだった。
 このシャンペンを抜く音に驚いたのは、副使の村垣淡路守も同じだった。サンフランシスコ市長が主催する歓迎会に出席した時のことだが、あちこちでするこの音が、まるで「砲声にひとし」かったと言っている。
 なおインターナショナル・ホテルでの食事については別の者が書いているが、「小魚の入った鶏のスープ、パン、鶏の丸煮、ライス、牛肉の塩漬、牡丹菜のおひたし、白い豆の煮物、生鮭を湯がいたもの、カレイに似た魚、カステラ、コーヒー」で、酒類についてはふれていない。「随分と贅美を尽くしたものであったが、塩気が足りない上に油の匂いが鼻について、とても口に入れる気が起こらず、しかし空腹には勝てないので少しずつ食べた」と言っているが、やはり洋食は口に合わなかったようだ。
 サンフランシスコからは、咸臨丸は日本に引き返す。帰路はハワイに寄って無事日本に帰港した。
 1方ポーハタン号は北米大陸沿いに南下して、使節団をパナマまで送り届けた。まだパナマ運河は出来ていないので、ここでポーハタン号とは別れ、パナマ地峡を列車で横断すると、メキシコ湾側には別のアメリカ軍艦が、一行をワシントンに届けるべく待機していた。
 ワシントンではブキャナン大統領主催の招宴が開かれた。この時の料理は、牛舌のスープ、大魚の蒸しもの、パン、紅白2種類の米飯などで、酒はシャンペン、リキュール、ワインなどが出た。
 批准書交換はあらかじめ予定されていたことなので何ら問題はなかった。ワシントンからは列車でフィラデルフィアを経てニューヨークに向かう。
 ニューヨークではペリー夫人から招きを受けた。ペリーは2年前に亡くなっていたが、ペリー邸を訪れると、夫人は例の泡盛を出してきて、夫から常々話は聞いていた日本人を歓待した。
 ところで、ペリーの葬儀はイーストビレッジのセント・マークス教会で行われた。それでちょっと余談になるのだが、この教会のすぐ近くに「マクソリーズ・オールド・エール・ハウス」という酒場がある。ニューヨーク最古の酒場で、開店はペリーが日米親善条約を締結させた1854年、経営者は代わっているが以来今日まで150年間ずっと営業を続けている。ついでながら横浜でペリーをもてなした料亭「八百善」は、18世紀初めに開業して当時6代目だったが、つい数年前に10代目になっていた店をたたんだ。経営が苦しかったからと言われているが、今再建を目指しているそうだ。
 ニューヨーク港には、ナイアガラ号というこれまた別の軍艦が待っていた。一行はこの船で大西洋を横断、喜望峰を回って日本に帰るのだが、乗船に当たって一悶着があった。
 艦長が一行が後生大事に抱えてきた醤油や味噌の匂いを嫌って、これらを海中投棄させてしまったのだ。秘かに隠し持っていた者もいたが、わずかな量だったので途中で尽きてしまった。それだけに、ジャワのバタビアでオランダ東インド会社が長崎から運んできた醤油を見つけた時は、一同狂喜せんばかりだった。例えどんなことがあろうとも、日本人と醤油を切り離せないのはこれでわかる。
 万延元年(1860、3月18日に改元)9月28日、横浜沖に到着した。旧暦ではこの年閏3月があったので、実質ちょうど9カ月にわたる長旅であった。
 なお遣米使節団というと、太平洋を往復したと思いがちだが、以上みてきた通り、彼らは地球を1周してきたのであった。

<<前頁へ      次頁へ>>