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アメリカに負けじとヨーロッパが
 「貿易をしましょう」という修好通商条約は、何もアメリカとだけ結んだわけではない。
 アメリカに許したならと他の国々も迫ってきて、結局イギリス、フランス、ロシア、オランダ、ポルトガル、それにプロシアとも同じ条約を結ばざるを得なかった。
 ところがこの条約は後で考えてみるととんでもない1項が含まれていた。
 これまでの長崎、箱館、横浜に加えて、1861年には江戸、62年には大坂と兵庫を外国人に開放しましょうという約束が書かれていたのである。だがそれは幕閣の1部首脳の専断であった。まして、朝廷からの許しも得ていない。さらには、「夷狄は追い払うべし」ととなえる攘夷派がまだ国内の大半を占めていたから、もし江戸や大坂にまでも外国人が入ってくるとなると、それこそ国をあげての大騒動になるは必定である。
 その時がだんだん迫ってくると、困り切った幕府はまずアメリカに、開港の延期を恐る恐るもちかけた。すると有り難やハリスは何とか本国に働きかけてくれると言う。でヨーロッパ諸国だが、これも嬉しいことにイギリス公使オールコックが助け船を出してくれた。
 「延期交渉の使節団をヨーロッパに送りなさい。費用はイギリスとフランスで負担しましょう」と言うのだ。先の遣米使節団の費用をアメリカが負担したことに強い対抗意識を燃やしたわけである。
 こういういきさつで結成されたのが、竹内下野守を正使として38名からなる遣欧使節団であった、この中には先の遣米使節団に加わっていた者が6名いた。福沢諭吉もその1人だが、ただし彼だけは他の5人と違って咸臨丸で引き返したので首都のワシントンへは行っていない。
 この使節団は文久年間に行動したため「文久遣欧使節団」と呼ばれているのだが、一行がイギリスが用意した軍艦で品川沖を出発したのは、文久元年12月23日(陽暦では1862年になっていた)のことであった。
 年末いっぱいまで長崎港に停泊し、長崎を発ったのは文久2年元旦である。
 この軍艦にも先のポーハタン号同様に、上甲板に日本人用の調理場が特設されていたので、米を炊いて日本食を食べることができた。
 一行が初めて西洋料理の洗礼を受けたのは香港に上陸してイギリス人経営のホテルに泊まった時である。
 このホテルの食堂で、牛、羊、豚、鳥肉などを炙ったり油で揚げたりしたものを、小刀や熊手(フォーク)のようなもので食べた。酥酪(そらく・バター)を多用しているように感じた。卵もあった。パンとコーヒーがついた。
 この遣欧使節団は、遣米使節団の復路のちょうど逆を辿っているわけだが、遣米使節団のように喜望峰は回らずに、スエズ経由で地中海に出る。しかしスエズ地峡にまだ運河は出来ていないので、やはり列車で通過した。この列車が「飛ぶ鳥よりも速い」と感嘆している。
 地中海を別のイギリス艦で航海しマルセイユ港へ、マルセイユからは2度目の鉄路の旅で、ついに第1の訪問国フランスの首都パリに着いた。
 品川沖を出てから2カ月半がたっていた。

さすがパリの料理と酒
 一行の宿舎は、ルーブル宮に隣接した、パリ第1級の「ルーブルホテル」であった。
 7階建ての建物全てがホテルで、600室もある。ホテルの中で迷子にならぬかと心配する者もいた。
 ホテルの食事について福沢は「食堂には山海の珍味を並べて、如何なる西洋嫌いも口腹に攘夷の念はない。みな喜んでこれを味わう」と書いているが、途中寄港してきた港々で食べた西洋料理に慣れたものか、みんなが「喜んで食べる」までになっていたようだ。
 ではその食事の内容はというと、これは別の者の日記に詳しいのだが、コメやエンドウ豆、それにうどんのようなもの(多分マカロニ)が入った吸い物(スープ)、蒸したり油で揚げた魚料理、ローストしたり蒸したり揚げたりした牛、羊、鳥肉、それにハムなどの肉料理、煎ったエンドウ豆、蒸して塩を添えたジャガイモ、それにキュウリに甜瓜(多分メロン)などの野菜料理、それからリンゴ、オレンジ、ナシ、桃、スモモ、サクランボ、ブドウなどの果物、カステラに似た菓子、「最上絶品也」と絶賛する氷菓(多分アイスクリーム)、これらに数種類のパンがついた。そしてコーヒー。
 現在の我々でさえ「豪華なフランス料理だこと」と感じるのだから、140年前の日本人がビックリしたのも無理はない。
 卓上に置かれている調味料にも驚いた。胡椒、塩、砂糖、酢、油、醤油(ここではソースのこと)などがガラス製の器に入れられ、好きなだけ使っていいというのだ。当時の日本では胡椒や砂糖などは貴重品扱いされていたのに。
 それから酒類だが、これもビールにシャンペン、赤白のワイン、スピリット、肉桂酒、茴香酒、桜桃酒など、こちらも実に多彩だった。
 肝心の延期交渉は、チェイルリー宮でナポレオン3世に拝謁後直ぐに開始された。しかし諸国を歴訪後、もう一度やり直すということになった。フランスはイギリスやオランダなどの出方をみてから決めることにしたのだった。
 それで次はドーバー海峡をこえてロンドンへ。
 「クラリッジホテル」に宿泊した。ホテルの食事は、朝はパン、ライス、ゆで卵、焼きサバ、茶。昼はビール、ライス、ヒラメ湯煮、イモ湯煮。夕食はビール、ライス、カレイ湯煮、イモ湯煮、とパリに比べたら随分と質素になる。
 ところでイギリスの新聞が、「日本人は生魚を常食にしている」と書いた。これはパリ到着以来なのだが、日本食が恋しくなったので何とか新鮮な魚を手に入れて、これを刻んで刺身のようにした。持参してきた醤油につけて食べたところ1同大喜びしたので、以後しばしばこれをするようになった。そんな様子をロンドンの新聞記者に見つけられてしまったらしい。
 なお日本を出る時に味噌も積んできたのだが、これは赤道付近の暑さで腐ってしまったので、仕方なくシンガポールに着く前に海に捨てた。しかし醤油は無事だったのでこうして刺身をつけて食べている。
 ヴィクトリア女王への拝謁は叶わなかった。夫君が亡くなったばかりで喪に服していたからである。
 しかし延期交渉の方は、オールコック公使が休暇を得て本国に戻ってきて、イギリス政府を説得してくれたので、種々の条件はつけられたものの承認されることになった。
 ところでロンドンではちょうど第4回万国博覧会が始まっていた。正副3使節が開会式に招かれたが、入場料を払って見に行った福沢によると、「1日の入場者は4〜5万人」という大変な人気であった。日本のコーナーもあった。
 しかしこれはオールコックが日本で収集したものを送ったもので、鎧や兜、刀などもあったが、みのや笠、履き物まで混じっていたので、一行からは「見るに耐えない」と大きな不評を買った。

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