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三井物産の清酒界進出
 安川雄之助は、明治3(1870)年、京都府に生まれた。当初は官途を目指し大阪の第三高等中学校に進んだが、後に実業あるいは貿易の将来性に目覚め、企業家になるため大阪商業学校に編入した。いわゆるエリート校から実業学校への転校は、周囲から正気の沙汰かと疑う向きもあった様である。能力と精神力に優れた安川は、卒業後、三井物産の大阪支店に勤務し大いに活躍した。そのこともあってか、インド綿花買付けのため新設されたボンベイ支店への派遣となった。支店員は彼一人であった。異国の地で綿花仕入ルート開拓に努める中、熱病にかかり生死の境をさまようなど苦労を重ねた。当地での経験を彼は後に「以後自分の手腕の見るべきものがあるとすれば皆この時に得た体験を応用したに過ぎない」と述懐している *8) 。帰国後は、何度か異動をへたのち、本店の筆頭常務にまで上り詰めた。敏腕を謳われ、「カミソリ安」の異名をとった。そして、慢性的な不況下にあった昭和3(1928)年8月、彼は各店長にたいし次の様な指示を与えた(大意) *9) 。
 財界の前途は不安材料を抱えているが、たえず安全有利な方向への進出を考え、旧来の取引でも改善策を講じなければならない。一方で失うところがあっても、他方で償う心がけが最も必要である。不況もあらかじめ予測して適当な準備さえしていれば、それほど恐れることもない。当社の様な実力ある企業にとっては、かえって進出機会を与える場合もある。それゆえ、転換を図る用意と工夫の次第によっては、当社の活動の余地は自ずから現われてくることと考えている。
 要するに、不況にひるむことなく怠りなく準備・工夫することが業務拡大へとつながるのだ、ということである。華々しい外国貿易だけでなく、地味な国内市場をもっと深耕することで新展開を図ろうという方針が採られたのであった。この安川の檄が社内で一種の過剰反応を引き起こし、三井物産であればこれまでまず取り扱ってこなかった様な商品、例えば鶏卵など在来産業の製品が積極的に取引される様になったのである。清酒もその一つとしてその取り扱いが企画され、実行へと移されることになったと理解することができる。

松尾仁兵衛商店−灘五郷中堅酒造家−
 本節では相手方の松尾仁兵衛商店の経営を概観する。その前に、まずは松尾商店が所在地域の概況について瞥見(べっけん)しておくことにしよう。
 同商店は兵庫県武庫郡の魚崎町に所在していた(現神戸市東灘区魚崎町)。六甲山南麓には大阪湾に濯ぐ河川がいくつもある。その急流を利用して酒米の水車精米が行われたのであるが、魚崎町はその一つ、住吉川の河口部分に所在している。当地では江戸時代から酒造が盛んに行われており、他に素麺製造、廻船業、醤油製造業なども地場産業として営まれていたようである。この魚崎町で松尾家と同様に活躍した酒造家としては、宮水の発見者として名高い山邑太左衛門がよく知られている(酒銘桜正宗)。同人は魚崎だけでなく西宮の酒蔵にも関係していたのであるが、両地における清酒には大きな出来の違いがあった。その原因を考える中で、両地の水の違いに思い至り、西宮の水「宮水」が酒造りに好適であることを確認したのであった *10) 。
 松尾仁兵衛家はこの魚崎町の旧家である。その酒造業は一八世紀初頭の元文期にはじまるとされている *11) 。同家の歴史はもっと古く、ある史料には以下の様に紹介している *12) 。

 我遠祖は京都松尾の社人松尾重尊より出ず。永正年間に其の地の兵乱を避け母氏佐々貴山君氏の縁により魚崎の地に成長し遂に此の地に住し子孫神明に奉し亦里正となる。

 同家の経営史料を見ると、その後酒造経営が間断なく続いていたかどうかは必ずしも明らかではないが、江戸後期になると史料が比較的豊富に残存しており、その酒造経営の内容を相当程度把握することも可能である。残された帳簿類から判断して、酒造業に止まらず、併行して地場産業である素麺や醤油醸造業にも関与していた様である。酒銘は金正宗や神亀などを使用しており、幕末期には庄屋や酒造家をまとめる酒造大行事などを勤めている。
 近代に入っても酒造業を引き続き行った。その一方で、魚崎村戸長に就任している。江戸時代と同じく、その傍らで醤油醸造や金融業も行うなどしていた。清酒の造石高の推移を示した図表1を見てみよう。ここでは明治25年から昭和16年までの造石高を表示している。明治中期から大正中期にかけてほぼ増加傾向で一貫している。大正中期において増勢は反転し、以後は趨勢的には下落が続いている。ただ、1930年代前半に限っては一定の回復を確認できる。松尾家の造石高を見ると、当初は1000石台であったが、最盛期には6000石近くにまで達している。この数字は、地方の酒造家と較べると相当な規模と評価できるが、灘五郷においては造石高が1万石を超える者も珍しくない。中には3万石を超える者もいる。このことを考えると、当地において傑出した存在とは言い難く、中堅どころの酒造家であったといえよう。ちなみに、明治40年の「灘酒番付」によると、同家の造石高は全118名中第48位であった *13) 。以上の諸点は、その造石高が灘五郷造石高と軌を一にしている点と合わせ、その経営の堅実さを示唆するものであろう。
 近世以来の歴史をもつ、いわば老舗である松尾家は資産家でもあった。明治末、その資産額は魚崎村で第三位につけていた *14) 。第一位は村長の山邑太左衛門で、第二位がスタンダード石油会社であった。スタンダード石油の名が挙がっているのは、沿岸部に石油関連施設があったためと考えられる。
 また、後述する様に、昭和初年ごろ既に同家の経営は当主松尾仁兵衛氏と共に、その次男定義氏によって担われていた。定義氏は、明治21(1888)年の生まれで、神戸商業学校を卒業した様である。そして、昭和11(1936)年に家督を相続している *15) 。神戸商業学校同窓会に属しつつ、神戸盲唖院や身体障害者の救済互助会などにも浄財を寄せている。同家の名望家的性格が垣間見えるところである。その一方で、酒醤油時事新報や神戸新聞などで広告を出したり、村内を走る鉄道線路のそばに広告用看板を設置するなど、経営面でもその積極的な姿勢を見出すことができる。

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