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三井物産の清酒界進出
(3)販売組織
 こうして三井物産は巨大商社の資金力をひとつの梃子にして、清酒界へ参入を図ったわけであるが、その際注目されるのは次の点である。すなわち、伊坂を初めとする商人を組織化し、金正宗会という販売網を構築したことである。三井物産営業部と松尾家との間での遣り取りから、その間の事情と組織の内部構成が多少明らかになる。以下の書簡は、昭和6年10月2日付の三井側から松尾仁兵衛氏に宛てて出されたものである(大意) *19) 。

 先般はわざわざ上京していただいたにも関わらず、何のお構いもせず失礼致しました。また、ご帰宅早々にも鄭重なお手紙をいただき厚くお礼申し上げます。契約もようやく調印の運びとなり大変嬉しく思います。東京販売店については、相六商店の横山清次郎殿(麻布区田島町)、加田村屋商店の岡野五兵衛殿(芝区車町)のお二人にお引き受け願い、ご両名と相談の結果、この数日中には牧原木治郎商店の伊藤時郎殿(市外淀橋町) *20) と崎山熊楠殿(神田区美土代町)に正式特約店をお引き受け願う手筈となっております。漸次、10軒ほどの有力特約店を選定するよう手配中です。このごろは連日連夜にわたり、販売計画に忙殺され休日もこれに奔走しておりますので、お手紙を差し上げる余裕もなくついついご無音に打ちすぎてしまいますが、何卒悪しからずご了承下さい。なお、前述の相六商店の横山氏は本販売計画案に大賛成でおられ、進んで種々の相談に乗っていただき、大変好都合でございます。

 まず、契約締結に先立ち蔵元自身がわざわざ上京していた事実が確認できる。一方、迎えた三井物産社員の方も、実施に向け「ほんの内職」とはいえ忙殺されている様子である。こうした過程を経ていよいよ活動開始となるのだが、組織の具体的構造について、今のところその全貌を示す資料は見あたらない。しかし、こうした断片的な情報から判断して、会には、前出の伊坂・鈴木の二店とともに、ここで名前が挙がっている横山や岡野、伊藤、崎山といった商人が含まれていたとみられる。この書状が作成された10月2日の段階では計画はさほど進捗していなかったと仮定すると、「恐るべき販売勢力を有する」伊坂と丸星鈴木は、この後、急遽加入を決めたのかも知れない。
 これら加入者を眺めてみると *21) 、まず伊坂市右衛門は江戸時代の下り酒問屋から続く家で、当時、東京酒問屋組合の組合長の職にあった。丸星鈴木は、伏見の大倉恒吉商店が醸造する月桂冠の有力な取扱業者であった。この製品は、大正4(1915)年に防腐剤無し瓶詰清酒「特製名誉月桂冠」として明治屋から販売され、このことで高い知名度を得たものであり、丸星鈴木は明治屋についでその取引高が多かった *22) 。横山清次郎は、麻布区内屈指の老舗で、「夙に酒類問屋を営み富商を以て鳴る」との評言がある。岡野五兵衛は、酒銘「日本盛」で知られる西宮酒造株式会社が、昭和六年八月に特約販売組織として「盛会」を結成した際、その常務理事に就任している *23) 。伊藤木治郎も、崎山、横山と共に有望な業者の一人として数えられている。崎山熊楠は、明治末期以降、酒類商として伸張し、ほかに帝国無尽株式会社を創立するなどしており、「帝都業界立志伝中の一人」と称される人物であった。以上、その主要構成員を見ると、業界でも選り抜きの商人達であったとみてよいだろう。そして、当初の目論見が実現したとすると、金正宗会の組織とは、三井物産がまず丸星鈴木・伊坂市右衛門商店の二商店を従え、さらにその傘下に横山以下の諸有力商店が10軒ほど連なっていたと推測できる。現時点では、これを金正宗会の骨格と理解しておきたい。なお、三井物産では本店だけでなく、名古屋支店も同地の盛川猪三郎商店と連携しつつ金正宗一手売り捌きを担っていたようである *24) 。
(4)結末
 既に述べてきたように、三井物産の思惑はある程度当り、まずは順調な滑り出しであった。「品質優良ニシテ格安」な金正宗がその競争力を充分発揮すれば、さらに販路を広げることも可能であっただろう。松尾商店にとっては飛躍のきっかけとなったかも知れない。しかしながら、期待通りには事は運ばなかった。契約書を交わしてから一年後の昭和7(1932)年10月1日を境に、一手販売契約は解除の方向へ進むことになったのである。
 口火を切ったのは意外にも松尾仁兵衛家の方であった。その理由について、同氏は三井に宛てた書状の中で次の様に述べている *25) 。

 常々お引き立てを賜り感謝いたします。以前から東京及び関西地方において販売していた酒代金なのですが、財界不況が続いたため、今ではほとんど回収不能の状態です。さらに、店員の者が不始末をしてしまい非常に大きな損害を蒙ってしまいました。そのため、弊店も甚だしく窮状に陥ってしまいましたので、このまま一手販売契約を継続すると、貴社に対し手違いを起こしご迷惑をおかけしても申訳ありません。この際、契約を解除して頂ければ弊店においても些か安心することもできます。何卒、事情をご推察していただき、寛大なお取計らいをお願い申し上げる次第です。

 ここでの言い分は、次の様なものであった。当店は酒代金焦げ付きと店員の不始末によって資金繰りが悪化した。そのため、この冬から始まる酒造りについても、資金面で不安がつきまとう。そのため、予期せぬ事態が無いとも限らない。ご迷惑をおかけするのは忍びがたいので、一手販売契約はどうか解除願いたい、ということであった。
 その後の経過はあまり明らかではない。だが、言うまでもなく、三井としてはあっさり引き下がる訳にはいかない。社員を担当部署に貼り付け、金正宗会を立ち上げ、自社の名をもって特売ちらしを配布し、業界紙でも大々的に報じられていたのである。けだし当然であろう。松尾商店と折衝を繰り返し、種々の助力を提案して計画続行の道を探ったようである。しかし、同商店の内情について説明を受けると、三井物産も「並大抵ノ方法ニテハ本商内継続不可能ト存候」と正式に解除に同意するにいたったようである *26) 。形式上はともかく、昭和八年四月の解除決定まで、実に約10ヶ月を要している。
 最後に、解除決定を受け、三井物産名古屋支店から松尾仁兵衛氏へ宛てて出された書簡を紹介することにしよう(昭和8年4月22日付) *27) 。先述のとおり、同支店は盛川猪三郎商店と協力し、金正宗販売にあたっていた。

 名古屋支店も本店にならい清酒商売を中止することに決定いたしました。特約店の盛川商店も、三井物産がやめるなら強いて金正宗販売を継続するほどのこともないとの意見ですので、わざわざ貴方より当支店へご足労願わなくとも良いと思います。もちろん、貴方のご意向で来ていただくのは何ら差支えありません。ただし、25日は担当者が休暇を取っておりますので、26日、あるいは28日が良いでしょう。27日は当支店は休業です。なお、25日より以前では、22日、23日の両日も担当者は休暇中です。

 愛想が良いとは言い難い、まさにまるで木で鼻をくくった文面である。また、4月22日作成の手紙に、22日と23日は都合が悪いので名古屋には来ないでくれと言われてもどうしようもない。この辺りの三井物産の対応には首をかしげたくなる。もはや金正宗などどうでもよく、次の商売のことで頭が一杯だったのだろうか。

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