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日本と海外の酒めぐり
韓国「飲酒作法」紀行
韓国の飲酒作法  
  安東地方では、「祭祀をした後に飲福する時以外、父子が同じ席に座り酒を飲む法がない。飲福をする時には向かい合って飲むことはできず、必ず半分は回って飲んだ。父母やオルンが下の人に酒を勧めたとしても杯を直接渡すことはない。酒を勧める言葉とともに杯を酒煎子(チュジョンジャ)(酒を入れるやかん)の横におけば、酒を注ぐ下の人や子どもが酒を注いであげる。子息が父母やオルンに酒をさしあげる
時には必ず杯に酒を注いでさしあげる」[同右書・422〜3]と、それぞれ記載されている。
 最後に、済州道においては、「家庭での特別な酒道法を教える場合は稀であったが、成人になると忌祭祀を終えた後一杯ずつ飲福する時、一族のオルンの前で酒道を習いもしたが、郷校や書堂など教育機関で習いもした」[同右書・498]とある。
韓国における儒教に基づく酒礼は、地域によって若干浸透度に差がみられるが、李朝500年の歴史の中で、ほぼ全国津々浦々にまで浸潤したことは間違いない。

四 儒教的教化としての郷飲酒礼
 前述の済州道での調査報告にあるように、酒礼はオルンの前で習うとともに、郷校(地方にある孔子廟とそれに附属した学校)や書堂(漢文の私塾、寺子屋)などで習われていたようである。
 その内容については、平木實の「朝鮮時代の郷村における儒教的教化の一側面│郷飲酒儀礼・郷射儀礼について│」が答えてくれる。平木は「郷飲酒儀礼」を李朝時代に儒教的な飲酒礼節を教化するために挙行された儀礼と捉える。「郷飲酒礼」は、中国の周の礼法である六礼、すなわち冠礼・婚礼・喪礼・祭礼・郷飲酒礼・相見礼の一つで、年長者を敬恭し、老人を孝養する義理があることを明らかにし、食べ物は粗末にせず感謝して食べなければならないという本意を諭す礼節であり、韓末まで郷校や書院で学生たちに教科科目として教えられたものである。平木は「主とし
て『王朝實録(ワンジョシルロク)』などにみえる基本資料を利用して史的考察を進めるとともに、未公開の新資料として英祖10年(1734)に江原道鶴城舘でおこなわれた郷飲酒礼の儀節をも紹介・活用しつつ、朝鮮時代の郷村社会における郷飲酒礼について考察」[平木 1999・2]を試みている。
 平木によれば、「郷飲酒礼は、高麗王朝に代わり朝鮮王朝国家が樹立された後、第四代の世宗代に儒教的な倫理・道徳を国民全体に教育・普及するために、その一環として郷村において制度として定められ、確立されて、全国的に実施されることになった。
この儀礼を実施した目的は、一、長幼の序を理解させる。二、敬老の精神を培う。三、郷村における相互の親睦を深める。四、尊卑の別を理解させる。五、孝道の精神を培う。六、儀礼の作法を通じて礼譲を理解させ、修養させる。などの点にあった。こうした徳目が国民全体に普及することによって良俗が確立され、さらに忠誠心が培われて王道が容易に達成されるというものであった。
 王命が下った直後には、郷飲酒礼は確実に実行されたようであるが、地方の観察使がとくに重視したばあいを除き、時間がたつにつれて疎かになるという傾向があった。けれども実施された郷飲酒礼の記録が各地方で作成されていた事実からして、中央政府には報告がなくても実施されたところが多かったことも事実であったといえよう。さらに朝鮮時代末期の純祖代にはいると、キリスト教を邪教として排斥する手段として、郷飲酒礼が特に強調されるようになったことは興味深い事実である。
 民衆の教化という重要な目的・使命をもち、実行しようとした施策ではあったが、具体的にどの程度実効をあげたかについては、実施することの重要性が繰り返し主張されつづけたこと、実施されたあと、風俗が改善されたという報告がなされているところから、国民の儒教的教化という目的を達する上に、一定の成果があったものと位置づけうる政策であったといえよう」[平木 1999・20〜21]とある。
次に、この郷飲酒礼がいつ頃まで行われていたかについては、鈴木栄太郎の報告から知ることができる。
 鈴木は「朝鮮総督府『朝鮮の郷土娯楽』(昭和16年刊)によれば、郷飲酒礼は郷土娯楽として現に各地で行われているように述べている」と文献の上では日本植民地時代においても行われていると記述しながらも、昭和18年3月8日から22日にかけて朝鮮半島を旅行した結果、実際には「いずれの土地においても郷飲酒礼について聴取することを忘れなかった。(中略)しかし現在行われているところは一カ所もなかった」[鈴木 1973・214]と報告している。そして、この旅行の間に数カ所において郷飲酒礼についての聞き書きを行い、「朝鮮における郷飲酒礼は主として文廟において今より約3、40年前まで行われていたのである。その趣旨には敬老という事はそれほど主要な事ではなく、飲酒における礼の修練といったようなものであった。日本における茶道が、茶を中心としての社交生活の芸術化あるいは儀礼化というなら、朝鮮における郷飲酒礼は酒を中心としての社交生活の芸術化あるいは儀礼化という事ができる」[鈴木 1973・221]と述べている。昭和18年、すなわち1943年の調査時から約3、40年前までは郷飲酒礼が行われていたというのだから、1900年を前後する頃までは行われていたことになる。
 さらに、これが行われなくなった背景としては、「この郷飲酒礼は、日帝(日本帝国主義)の侵略を受けた後、義兵謀議をする集まりとして利用されもした。日帝は憂国志士を集める方法としてこの儀式を利用することを摘発、その後この儀式の挙行を禁止した」[徐燉永(ソドンヨン)1986・174]ということがあげられている。ちなみに、消えた郷飲酒礼が「74年ぶりの1979年11月10日、成均館大学校の明倫堂前庭で韓国青年儒道会により三時間ほど所要して再現された」[徐燉永 1986・174]という報告がある。

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