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日本と海外の酒めぐり
酒で巡る韓国の旅
酒で巡る韓国の旅  
つくるものから買うものに変わった酒
  散麹はマッコルリの工場で見ました。
 場所はソウルの北東に位置する抱川(ポチョン)。ソウル市内から車で一時間半ほどのところです。二東(エドン)酒造というマッコルリのメーカーで、パック容器に充填された商品を日本にも輸出しています。
 同社には、日本の清酒工場で見るような大型の蒸し器がありました。これで一度に大量の小麦を蒸し、床に広げて麹菌をふり、図表5のように製麹機で小麦の散麹をつくっていました。
 マッコルリは庶民がつくるどぶろくでしたから、もとはヌルッを使っていたはずです。工場での量産システムに置き換わるなかで変わったのでしょう。イ・ヨンボン工場長によるとソウルオリンピック(一九八八年)の頃にこうした製法に変わったそうです。それまではヌルッをつくるために、皆で型に入れた小麦を踏んでいたと言います。
 マッコルリづくりでは、過去二〇年の間に、このほかに二つの大きな変化がありました。
  ひとつは一九八〇年代末以降に米を主原料にしたマッコルリが復活したことです。もともと米でつくっていたのですが、政府が一九六〇年代に食糧優先と外貨流出を抑制するために主原料を小麦に変えさせたのです。以来、マッコルリの原料は小麦になっていました。
 もうひとつは保存性が高まったことです。従来マッコルリは生のままで流通していました。二東酒造でも一九八六年まで瓶詰め商品の販売はしておらず、車にタンクを積んで、あちこちに量り売りして廻っていました。それが、加熱殺菌して後醗酵で発生する炭酸ガスを抑えるように変わって、長距離の移動にも耐えるようになったのです。そして、この頃から自家製のマッコルリの減少が顕著になり、商品として販売されるものが市場を広げていきます。
 また、二東酒造のマッコルリづくりは酒母をつくり、蒸米と水を掛ける仕込み方法が採用されていました。この点も酒母をつくらずに一度に仕込む家庭でのマッコルリづくりと異なる点です(図表6)。

規制と地元酒愛飲運動
 今、韓国の酒類消費は年々増えつづけています。一九九八年の二五六万sが二〇〇一年には三〇七万リットルと、わずか四年で二割も増えました。アルコール度数一〇〇%換算の成人一人あたりの酒類消費量は、韓国が世界一とも言われています。
 韓国はとてもよく酒を飲む国と言えそうですが、その特徴はなんといっても焼酒(そじゅ)が消費量の三割を占めていることでしょう。ビールが七割弱を占めていますから、酒の大半はビールと焼酒ということになります。
 そして焼酒のほとんどは希釈式焼酒(甲類焼酎)、日本でもおなじみの眞露や鏡月などです。国内向けのものは、日本向けに輸出されているものよりも甘みが強く、辛い韓国の食文化に合わせたためと言われています。
 これらの商品のアルコール度数は二一度が主流です。以前は二五度、さらに前は三〇度が一般的でしたが、メーカーが意図的に少しずつ度数を引き下げてきたのだそうです。それをストレートで飲む。三〇ミリリットルくらい入るショットグラスに焼酒を注いで、ひと息で飲む人が老若男女を問わず珍しくありません。
 希釈式焼酎がこれほど飲まれるようになったのは、一九一七年に日本が国内の酒税法に倣って韓国でも自家醸造を禁止したこと、一九六〇年代半ばに政府が焼酒の原料に穀類の使用を禁止したことが強く影響しています。
 また、ソウルの眞露、釜山のC−1(大鮮酒造)、江陵の鏡月など特定の地域で非常に高いシェアをもつメーカーがあるのは、一九七〇年代に焼酎メーカーの企業整理が進められ、道内一社体制となったためです。さらに一九九〇年代まで、中小企業保護のために地元のメーカーが地域内のシェア五〇%をとるという規制がありました。もっともこうした規制のせいばかりではなく、底辺には韓国の地域主義の強さがあります。全維道と慶尚道の対抗意識の強さはしばしば指摘され、京畿道、江原道、忠清道でも地元酒を愛飲しようという気持ちは根強いと聞きました。

写真提供『週刊新潮』/撮影 西村 純

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