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テヘラン酒事情
テヘラン酒事情  
イスラム革命下の厳しい生活
テヘラン市内のバザールの様子 かなり前のことになるが、せっせと密造酒造りに励んでいた時期がある。80年代の前半、特派員として二年ほど住んだイランの首都テヘランでのことである。
当時、イランはホメイニ師のイスラム革命(1979年)を経験し、その混乱がまだ収まらない翌80年には隣国イラクから攻め込まれた。私が赴任したのは開戦から二年ほど経った頃だったが、革命と戦争という内憂外患にあってテヘランの生活も厳しかった。
戦時下の物資不足に加え、イスラム法の厳格な適用で、街は鬱屈した雰囲気に覆われていた。牛乳や食用油、鶏肉など輸入品の品不足は深刻で、私もこれらを手に入れるため、仕事を後回しにして市民の長い行列に加わった。イスラム至上主義も市民生活の隅々に行き渡っていた。女性はヘジャブという被りものが必須とされ、髪や肌を人目にさらすのは厳禁だった。欧米文化は堕落の象徴とされ、音楽、映画、文学作品に至るまで、排斥された。アルコール類も当然御法度だった。

西側の特派員、外交官も、革命の転覆を謀るスパイと見なされていた。特に特派員の場合、一ヶ月ごとにビザ更新を義務付けられ、その度、当局に出向かねばならなかった。
われわれ特派員を管轄するのはイスラム指導省という官庁だった。どのような記事を書いたか、在外公館から報告が逐一上がっていて、「貴方はイランに批判的な記事ばかり書いている」「貴方はイランの側に立つのか、イラクの味方をするのか」と担当官がチクリチクリ言った。暗に「イランに好意的な記事を書かないと、ビザは更新しない」とにおわせるのだった。実際、ビザが更新されず、国外退去になった特派員も何人かいた。
そんなイラン特派員にとって、大きな仕事はイラン・イラク戦争のカバーだった。その中でも「戦場ツアー」と特派員仲間で自嘲を込めて呼んでいた、イスラム指導省が外国特派員を引率して戦場に連れていく前線取材があった。イラン軍がイラク軍に戦闘で勝ったときにお呼びがかかる。私が赴任していた当時は、緒戦で劣勢にあったイラン軍が徐々に巻き返していた頃だったから、2ヶ月に1度は「◯◯◯の前線に行くので、明日朝6時にテヘランの空軍基地に集合されたし」といった電話がイスラム指導省からあった。
街のあちこちで見かけられた愛国精神を訴える当局のポスター イラン軍が上げた戦果を外国特派員に早く見せようとするあまり、前線がまだ流動的なことが多かったから、この「戦場ツアー」にはかなりの危険が伴った。行けば実地に戦況や補給・兵站の状況を見ることができ、得るところが多いのだが、肉体的、精神的に負担は小さくない。数週間前に行ったから止めようかと思っても、ビザの更新のことを思うと、ついつい参加することになってしまうのだった。

極限状態の戦場ツアー
テヘランから双発の輸送機で一時間余り。前線に近い空軍基地から軍用トラックに乗り換えて前線に向かう。緩やかな起伏を見せながら広がるのは砂漠というより土漠である。でこぼこ道が黄土色の風景の中に一本、筋のように続いている。容赦ない土ぼこりと、身の置き所のない揺れ。戦場のイラン・イラク国境は世界でも名だたる酷暑地帯だから、夏だと車内は五〇度を軽く超え、ひっきりなしに持参した水筒の水を補給しなければ身がもたない。特派員同士、口をきくのも大儀になる。「戦場ツアー」はこのようにして始まるのだった。
前線に着くと、イラク軍が埋めてまだ撤去されていない地雷原の間の細い道を、案内のイスラム指導省の役人を先頭に一列縦隊になって進む。「誰か間違って地雷を踏まないでくれよ」と祈るような気持ちになる。私が参加しなかった「戦場ツアー」で、案内人が地雷を踏み、英ロイター通信の特派員ら三人が死亡し、朝日新聞の特派員ら三人が重傷を負ったことがあった。
あるとき、切り立った丘の上のイラン軍陣地から敵陣を望んだことがある。銃眼からこわごわのぞくと、古代文明の揺籃の地メソポタミア平原がはるかに続き、点在するナツメヤシの間から沼地が太陽を照り返してキラキラ輝いていた。撃ち合いの合間の一瞬の静寂の中に南国の平和な光景が広がっていた。
しかし戦場での平和な光景は、いつも一瞬で破られた。前線取材中にイラク軍の一斉砲撃が始まり、塹壕内で身を小さくしてうずくまったことも再三だった。特派員団を乗せたトラックが出発してしまい、前線においてきぼりを食ったこともある。
帰途の輸送機はいつも大勢の負傷兵や戦死者と一緒だった。私の足下に毛布にくるまれた戦死者が転がり、毛布から出た腕が輸送機の振動で小刻みに震え、呼吸をしているのではないかと錯覚を覚えたこともあった。
支局兼住宅のアパートにたどり着くのはいつも真夜中だったが、休む訳にはいかなかった。日本は夕刊作業が始まる頃で、急いで前線ルポを書いて送らねばならなかったからだ。
テヘラン郊外にあるホメイニ師廟 電話で原稿を吹き込み終え、シャワーで土ぼこりと汗を流すと、台所の流しの下に置いてあるワインのビンを取り出す。私が造った密造酒である。ワイングラスなどしゃれたものではない。ふつうの水飲みコップに、ビンの底に沈殿した澱を撹拌しないようそっと注ぐ。一口含むと、「戦場ツアー」に緊張しきった細胞と精神が弛緩し始める。「ああ、今回も無事に帰ってこられた」と、このとき初めて思う。
貴重な手製ワインをチビリチビリやりながら「戦場ツアー」の思いに耽っていると、イスラム寺院の尖塔から、拡声器を通して祈りにいざなう朗々とした調べが、しじまを破って街に流れていく。気付くと東の空が明け初める時刻である。

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