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アイリッシュの酒文化
アイリッシュの酒文化  
新天地へウイスキーを伝播
 西ヨーロッパの辺境で地酒として飲まれていたウイスキーを、18世紀に新世界へもたらしたのが、ほかならぬアイリッシュだった。正確に言うと、スコッチ・アイリッシュと呼ばれる人たちだ。彼らは17世紀はじめ、スコットランドからアルスター(今日の北アイルランド)に渡って来たプロテスタント(主にカルヴァン主義の長老派)移民の子孫で、宗教的圧迫、不作、高い地代に嫌気がさし、新天地のアメリカをめざした。カトリックを信じる土着のアイリッシュとは一線を画していたが、彼らもまぎれもなくアイルランド島の住人だった。
 スコッチ・アイリッシュたちはアパラチア山脈が走るペンシルベニアで一大入植地を開き、ピッツバーグを中心にウイスキー造りに着手した。といっても、原料となる大麦が育たなかったので、ヨーロッパから輸入した安価なライ麦を使って新しいタイプのウイスキーを生み出した。肉体労働を強いられた入植者や西部をめざした開拓者たちにとって、アルコール度数の高いウイスキーは活力源として不可欠だった。アパラチアにこんな言い伝えがある。
「イングランド人の入植者はまず家を一軒建てた。ドイツ人は頑丈な納屋を建てた。しかるにスコッチ・アイリッシュは真っ先にウイスキーの蒸留所を建てた」
 当時、アメリカは大英帝国の植民地だったが、本国政府の過酷な税金に苦しみ、やがて独立戦争が勃発、そして1776年に悲願の独立を成し遂げた。そのとき植民地軍の将校の多くが、兵士では半数以上が反英感情の強いスコッチ・アイリッシュで占められていた。
 独立後、ペンシルベニア産のライ・ウイスキーが新興国アメリカで広まると期待されたが、新政府がウイスキーに税金を課したので、蒸留業者は西部のケンタッキーやテネシーへ逃れ、トウモロコシを原料にしたウイスキーを手がけた。それがやがてバーボン・ウイスキーやテネシー・ウイスキーとして開花していく。トウモロコシ主体のウイスキーは、スコットランド人牧師のエライジャ・クレイグ、あるいはウェールズ出身のエヴァン・ウィリアムズが造ったのが最初と言われているが、その基盤を築いたのは明らかにスコッチ・アイリッシュだった。
  ヨーロッパに眼を向けると、アメリカ独立の11年前(1765年)、リチャード・ヘネシーという青年がアイルランドからフランスに渡り、コニャック地方でブランデーの製造に乗り出した。そう、彼こそがコニャックの名門ヘネシーの創業者である。当時、プロテスタント優位のアイルランド社会に反発したカトリックの若者たちが故国を離れ、「野鴨=渡り鳥(ワイルド・ギース)」と呼ばれる外人部隊として同じカトリック国フランスの軍隊で活躍していた。そのひとりがヘネシーだった。彼はコニャック地方でブランデーに魅せられたという。
 最近、ヘネシー社は祖国アイルランドをしのび、「ナジェーナ」というアイリッシュ・
ウイスキーを製造した。このブランド名は「ワイルド・ギース」を意味するアイルラン
ド語の「ナジェーナ・フィエン」(N a-GeannaFiain)に由来している。ともあれ、ブランデー業界にもアイリッシュの足跡が残されていることは記憶に留めておきたい。

「ウイスキー革命」の立役者
 さて、アイルランド国内では18世紀後半にウイスキー製造業が形成されはじめた。そのころ、北海道をひとまわり大きくした島に2000近くもの小規模な蒸留所が点在していたというから驚きだ。質的にも飛躍的に向上し、ロシアのピョートル大帝から「すべての酒のなかでアイルランド産が最高だ」と高く評価された。そして一九世紀半ばのヴィクトリア朝時代に最盛期を迎えた。弱小業者が次々に統合され、約160の蒸留所がフル稼働。停滞気味のスコッチ業界を尻目に、アイリッシュ・ウイスキーが世界ナンバーワンのウイスキーとして君臨していた。
 そんななか、ウイスキー業界で一大変革が起きた。ブレンデッド・ウイスキーの出現である。その立役者がアイリッシュのイーニアス・コフィだった。1780年代にダブリンで生まれたコフィは、アイルランドの最高学府トリニティ・カレッジを卒業後、有能な収税官として働いたが、1824年に依願退職し、ダブリンにある小さな蒸留所の経営に乗り出した。生まれつきモノを作る才能に長けていた彼は、スコットランド人の蒸留業者ロバート・スタインが五年前に発明していたまったく新しいタイプの連続蒸留機を改良し、1831年に実用化にこぎつけた。それは連続的に、しかも大量に安価に蒸留できる画期的な代物だった。彼の名にあやかって、その蒸留機はコフィ・スティルと呼ばれ、同時にパテント(特許)を取得したことからパテント・スティルとも名づけられた。
 この新型蒸留機に飛びついたのが同胞のアイリッシュではなく、ライバルのスコットランド人(ローランドの業者)だった。1840年、パテント・スティルを使って穀類を原料にした新タイプのグレーン・ウイスキーが誕生した。その13年後、エディンバラの酒商人アンドリュー・アッシャーが、このグレーン・ウイスキーと従来のシングル・モルト・ウイスキーを混ぜ合わせたブレンデッド・ウイスキーを世に放った。
 元をただせば、ひとりのアイリッシュの知恵で生まれた、口当たりのいいマイルドなブレンデッド・ウイスキーの登場によって、後塵を拝していたスコッチ業界が巻き返しを図り、アイリッシュ・ウイスキーを凌駕していったのは何とも皮肉な話である。けれどもパテント・スティルとブレンデッド・ウイスキーという、洋酒史上エポックメーキング的な発明品にアイリッシュが一枚絡んでいたことは、アイルランド贔屓のぼくには非常にうれしい。

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