時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

日本と海外の酒めぐり
観光開発とミャオ族の酒文化
観光開発とミャオ族の酒文化  
少数民族地域の振興にむけた観光開発
中国においては1978年に改革開放政策がとられてから、観光が有望な産業として注目されるようになった。近年では都市の生活水準の向上に伴い、観光ブームが起こっている。こうしたなかで国家が今最も注目しているのが辺境の少数民族地域の観光資源の開発である。中国は多民族国家であるが、衣食すら不自由している最貧困層の八割が辺境に暮らす少数民族である。この地域ではインフラ整備の遅れにより大規模な工業開発がなかなか進まなかった。そこで国家は少数民族の生活、文化に注目し、それを資源とする民族観光をおこし、貧困救済と地域振興につなげたいと期待するようになった。また、正確な民族知識を一般大衆に普及する目的で、新聞やテレビが少数民族特集を組んだり、小中学生向けの啓蒙書を作るなどの試みがなされ、少数民族に対する偏見、蔑視が徐々に改善されてきている。

村入りの儀式を受けている観光客(雷山県郎徳村) ミャオ族はかつて明代、清代において、漢族の進出に伴う失地と重税に苦しみ、しばしば蜂起を起こした歴史を持っており、移動と拡散を続けてきた。このため、居住地は交通の便の悪い山間僻地にあり、支配者側からは反逆者の烙印を押され、一般の漢民族からも無知蒙昧の野蛮人と見下されてきた。しかし、彼らはしたたかである。水牛を皆で屠り、集団意識を強化したり、古代日本の歌垣を思わせる男女の自由な愛の交歓により、子孫繁栄をはかるなど逆境に適応した伝統文化を築き、戦乱と迫害による民族離散という危機にあってもしぶとく生き抜いてきている。一方、日本では1902年から1903年にかけてこの地域を踏査した人類学者鳥居龍蔵が銅鐸、米、高床家屋などの文化要素を日本にもたらしたのはミャオ系の人々であると唱えて以来、ミャオ族は日本の基層文化とのつながりで注目されてきた。
そのミャオ族が最も集住する貴州省東南部にある黔東南苗族族(けんとうなんみゃおぞくとんぞく)自治州は、有数の貧困地帯であるが、同時に民族観光の先進地帯でもある。すでに86年から観光開発が始まり、86年当初7カ所だった民族観光スポットは97年には47カ所にまで増加している。自治州では州の中核産業として観光開発に力を入れていく方針だという。自治州の観光開発には2つの特徴がある。一つは人工的に作ら れた観光村ではなく、少数民族が実際に生活する村を観光スポットとして開放していること。観光客は村の広場で披露される民族芸能を鑑賞するだけでなく、村のなかを自由に歩くことによって村人の生活を身近に見ることができる。八六年に観光開発を立ち上げるに際して、その前年に受け入れた日本からの学術訪問団の反応や「野麦峠」「姿三四郎」といったテレビで見る日本人の衣装を見て、開発を担当する自治州旅游局(じちしゅうりょゆうきょく)では、「一番開拓しやすいのは日本の市場だ」と確信した。7つの観光スポットの選択にあたって典型的な高床家屋や抜き衣紋(えりを後ろへ引き下げて着物を着ること)が見られる村を選んだという。日本人観光客にとってこの地域は、今や雲南のシーサンパンナとならぶ「日本人のふるさと探しツアー」のメッカとなっている。

敬酒歌を唄う娘たち(雷山県郎徳村) 二つめの特徴は外部の観光産業が進出しておらず、地元主導の観光開発が進められてきたことである。省政府や自治州政府の強力な支援があるものの、労力や資材の提供を通じて住民が開発に直接参加し、住民の意志が開発に反映されている。たとえば、ミャオ族のなかには観光客の前で自分たちの伝統芸能を演じて娯楽の対象にされることは民族の汚辱だとする考え方も根強くあった。こうした空気のなかで開発に踏み切った村では、村人自身が「自分たちが誇りにしているもの、見せたいと思うものを見せればよい。見せたくないものは見せない」と決断を下したのである。そして彼らが一番誇りにしているのが地酒による観光客へのもてなしだったのである。

<<前頁へ      次頁へ>>