時代や文化とリンクしたお酒に関する旬の情報サイト
酒文化研究所ホームページ
会社概要酒文化の会メールマガジンContact UsTOP
イベント情報酒と文化コラム酒文研おすすめのお店酒文化論稿集酒飲みのミカタ特ダネ
海外の酒めぐり日本各地の酒文化見学できる工場・ミュージアム酒のデータボックスアジア酒街道を行くリンク集

日本と海外の酒めぐり
悠久の「時」シルクロードの町で
悠久の「時」シルクロードの町で  
過保護はいけない
 ところで、登山を趣味とする我々は当然ながらナチュラリストで自然保護派である。だが、待てよ、と思う。森林生態学者の只木良也はその著『森と人間の文化史』の中でこのように論じている。「農耕を基調とした日本文化は、森林をその糧とし、そのために生じた半自然の中で発達してきた。しかし、後手後手となりがちな行政対応へのいらだちは人々を急進的自然保護運動へと駆り立てた。林のツル伐りに出かけた森林所有者を見て、近くの新興住宅地に住む婦人が、自然破壊をしに行く人がいると、警察へ通報した実話がある。自然を守るためにやる伐採もできない。自然保護はいいが、自然過保護はいけない」と。
 子育ても同じだ。保護はいいが、過保護はいけないのだ。今の日本では自然保護運動でなく、ともするとヒステリックな自然過保護論者が多いのではないだろうか。
 そう、酒も同じなのだ。適度に飲む「適飲」ならいい。いや、大いに結構ではないか。いけないのは「過飲」だ。
  我々は、そう自戒して夜店のコーリャン酒をぐいと飲み干すのである。「まだ、適飲のうちではないか」と。アルコール度40%に近いこの酒は、正直いって最初はうまくもなんともない。ただアルコールという化学物質を胃に流し込んでいるだけなのだが、不思議なことに杯を重ねるうちに、じわじわとうま味さえ感じるようになるのである。
 どこまでが適飲で、どこからが過飲か?

「適飲」の果て、悠久の時は流れる
 陽の落ちたポプラ並木の街道をしゃんしゃんと鈴の音をたてながらロバの群れが行き交っている。たゆたうようにゆったりと流れる悠久の時の流れ。パソコンやインターネットなどという言葉はここでは無縁だ。だが、ありあまる時の流れは、忙しすぎる現代に病んだ我々の心を癒してくれる。忙しさの中に真実はないとすれば、ここにはそれを考えさせる確かな「時」が存在しているのだ。
 今回の登山と旅は、人生にとって真の豊かさとは何かを求める心の放浪の旅でもあった。
「我々はどこから来たのか? 我々とは何か? 我々はどこへ行くのか?」
 それは、放浪の画家・ゴーギャンが語ったこの言葉をかみしめる旅でもあった。豊饒の時の流れは、我々にそれを考える思考のチャンスを与えてくれた。
 いや、与えてくれるはずだった。

「もう一本、やりますか」
「いや、適飲を越してしまうのではないか。過飲はいかん」
「いや、いや。飲んでるときは、すべて適飲です。過飲などあろうはずがない」
 そういって我々はまた杯を重ねる。そうだ。飲んでいるときは、いつも適量にして正常なのだ。過飲かどうかは翌朝にならなければ分からないのである。
 もう、我々がどこから来たのか、我々はどんな人間で、これからどこへ行くのか、などどうでもよくなってきた。
 悠久の時の流れの中で、思考は陶然として酔いの中をたゆたうのである。人生についての命題に対する答は、しばしペンディングだ。
 悠久の時の流れはそれも許してくれるだろう。そして、その答を出しにまたシルクロードのオアシスの町を再訪せねばなるまい。

【プロフィール】
浜名 純(はまな・じゅん)
一九四八年生まれ。北海道大学生物資源科学科卒業。フリージャーナリスト。ダウラギリ1峰(八一六〇メートル)、バルンツェ1峰(七二二〇メートル)の厳冬期世界初登頂。社会問題や自然環境問題などを中心に取材活動をしている。
著書は、『北海道細見』『福祉の仕事』『冒険術入門』(共著)『まちなかでアウトドア』(共著)など。

1998年夏号 お酒の四季報5

<<前頁へ      次頁へ>>