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月桂冠 京都
温故知新の酒造り
日本が高度成長に突入した昭和30年代後半から、後継者として若者を新たに蔵人に加えることが困難になってきていた。早くからこの問題に取り組んだ大手の代表として、伏見の月桂冠(酒文化の会会員)の現状を紹介しながら、将来を考えたい。

新しさへの挑戦の歴史
清酒醸造を支えてきた杜氏の高齢化と後継者難という問題に対して、竹鶴酒造(会員)は若い杜氏を常雇いして育てていくという姿勢を示し、月の輪酒造(会員)は社長自らオーナー杜氏として製造に当たるという体制を整えた。しかし、もっと組織的な対応が必要となる大手メーカーはどのようにこの現象を捉えて、対策を考えているのかが気になった。
もちろん、機械化、コンピューター化を進めて、社員の手により醸造していくわけだが、吟醸酒、とりわけ、新酒鑑評会で金賞の取れるような高品質の酒も熟達の杜氏なしで機械で造ることがどこまで可能なのか。
このあたりの考え方と現状を聞こうと、清酒最大手で本年創業360年を迎える月桂冠を訪問した。
月桂冠では、昭和2年、日本酒醸造近代化の布石となる冷房付きの鉄筋コンクリート製酒蔵「昭和蔵」が竣工。昭和36年には初めて四季醸造蔵をつくり、杜氏による寒仕込みから社員による通年醸造へとスタートしている。近年はファジー理論を使って酒造りのノウハウをコンピューター化していると発表している一方で、杜氏による酒造りも脈々として続けている。
同社の栗山一秀副社長は、四季醸造を始めた頃のことを次のように語った。

「そもそも酒造りを冬に限り、杜氏に委託するというのは、江戸時代に始まった比較的新しいことである。室町以前は夏も造っていたし、杜氏もいなかった。古文書を見ても誰が酒造りの技術者であったのか名前が残っていないので、はっきりしないが、僧坊酒の時代には僧が、室町時代には酒屋の家人が実質的なマイスターであったと想像される。
一方、四季蔵をつくり、社員が醸造に携わる以前は、製造業でありながら、社内に醸造のノウハウがあまり残っていなかった。当時の状況は、ご主人さま(蔵元)がお米を杜氏に預け、杜氏はそれを酒にして返すという「委託生産体制」であった。一般的に言えば、ご主人様の考え方は、『酒が不味ければ杜氏を替えれば良い』というものであった。その中では、杜氏も冒険がしにくいし、会社の技師も製造現場に口出しすることは難しかった。
四季蔵をつくり、製造技術者を毎年採用して社員で造ろうと考え始めたのは、製造業としての基本に立ち返るということと、既に当時から杜氏の将来性に危機感を持っていたことによる。
四季蔵をつくった昭和30年代後半には、杜氏の後継者(息子)は、ほとんど酒造りに来ておらず、将来の製造体制の変革を迫られていた」

杜氏の技術を学ぶ
現在の月桂冠は、伏見に大手一号蔵、大手二号蔵、北一号蔵、北二号蔵、昭和蔵、内蔵の六蔵、そして灘工場と、七箇所に醸造蔵を持ち、本年は全蔵が全国新酒鑑評会で金賞をとっている。(そのうち、オール社員蔵が四、季節杜氏蔵が三)。
今回は安部取締役醸造部長を始め、すべて社員で造っている蔵の醸造責任者となっている初山次長(大手一号蔵)、笠井次長(大手二号蔵)巽課長(北二号蔵)福田課長(灘工場)と、いわゆるマイスターの方々にお話をお伺いした。
笠井次長が入社したのが昭和38年で、この年から本格的に製造スタッフの採用が始まっている。大学卒の醸造技師の採用自体は、明治42年以来、何代も行われていたが、酒造りの研究や醸造コンサルタントの立場であり、実際の製造そのものは杜氏に委託されていて、直接の関与はあまりしていなかった。

−社員による四季醸造の酒造りは、どんな形でスタートしたのですか。
「四季蔵をつくった当初の、およそ2年ほどは杜氏さんと一緒に寝泊まりしながら酒造りを教わった。その頃は、杜氏さんの他に蔵人が20名位来ていました。新しいシステムで最高の酒造りを目指そうということだったと思います。
そこで名杜氏の造りを学ぶ一方で、研究所でデータを取り、麹を分析したり、吟醸造りのポイントを分析していった。ここにいるメンバーは大体その頃に入社した者です。
そんな中で、昭和50年頃から、最高の吟醸酒を社員の手でも造ろうという気運が盛り上がってきた。ひとつには、いつまでも杜氏が造る酒だけが、美味いということではいけないということもありましたし、最高の酒を造り込んでいく中で、より技術レベルが上がり、普通のお酒もレベルアップできるという考えがあったからです。
但馬の名杜氏・岸亀松さんとか、いろいろな人の造りを参考にしながら、見様見真似で大手蔵での吟醸造りが始まりました。
今では、当社の清酒は吟醸も含めて90%以上が社員の手により造られています。また、一般に公開はしていませんが、吟醸酒ラインも平成4年には完成しました」
「昭和55年から平成5年まで、秋田、岩手、広島の名杜氏さんが入られたので、そこで随分と勉強させてもらいました。杜氏の出身地域によって醪の管理温度が違うし、麹造りの流儀も違います。秋田の杜氏は麹造りの温度が低いとか、みんな違うのです。そういうのを、眺めながらポイントを掴んでいきました」
−教えてはくれないのですか。
「杜氏も指導のために来ているのではなく、金賞を取る酒を造ろうと思って来ているので、大変ピリピリしています。人に教えている余裕はありません。それに酒造りは教科書通りには行きませんから。
名杜氏とは実践の中でいかに上手に軌道修正して、思った酒を造っていけるかなんだなとその時に感じました」

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