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賀茂鶴 広島
清酒の高級ブランドはいかに作られたか
第一部  戦前の廣島酒と賀茂鶴
創業・「賀茂鶴」命名

 最初に賀茂鶴酒造の歴史を眺めておこう。賀茂鶴酒造は明治六年に、西条(現東広島市)で清酒の製造販売を営んでいた木村和平が酒銘を「賀茂鶴」と命名し創業する。
当時の酒造業は、日本の全工業生産の一六%強を占める巨大産業であり(明治七年「府県物産表」)、明治維新でそれまで厳しく制限されていた藩内の販路区域および他府県への移出入が解禁されて、全国各地で発展の気運が高まっていた。
明治一〇年代前半には、地租改正(明治六年)を通じて農村に貨幣経済が広がったこと、明治一〇年の西南戦争後の急激なインフレーションで農村が好況に恵まれたことなどから、清酒の需要が急増した。これに応えるべく各地に小規模な酒造家が続出するが、一〇年代後半からデフレーション政策が強力に推し進められると、明治二〇年代前半まで小規模な醸造場数はあらかた整理されてしまう。

新興産地「廣島」の技術革新
 明治一〇年頃の廣島県では三津や竹原の酒造家が九州地方などへの移出を盛んに行ったが、一方で大阪の堺などから酒がおびただしく流入し混乱を極めていた。こうした中で酒質の向上により安定的な発展を意図する酒造家が出始める。その代表は軟水醸造法を開発したことで知られる三津の酒造家三浦千三郎である。彼らの行動の特徴は醸造技術を積極的に開示し、県内外の多くの酒造家や技術者と交流したことであろう。そして、技術研鑚の場として三津と竹原の酒造家は明治二四年には清酒品評会を立ちあげ、明治二六年には廣島県の主催で行われるようになる。
 賀茂鶴もこうした動きの中にあった。中硬水である西条の水に適した醸造法の開発に力を注ぐと同時に、明治三〇年頃には佐竹製作所が開発した最新の臼杵式精米機を導入する(後に同製作所が開発した竪型精米機を昭和八年にいち早く導入)などの技術革新に積極的に取り組む。
 明治二七年に山陽鉄道が開通して交通の便が開けると、西条の酒造業は飛躍的に発展する。中でも賀茂鶴は、日清戦争(明治二七年)、日露戦争(明治三七年)に際して、軍用酒に採用され漸次増石していく。また、防腐剤を使用しない酒の開発も積極的に推進していく(『東京酒問屋沿革史』)。
 そして廣島酒は、明治四〇年から始まる全国清酒品評会(日本醸造協会主催)や同四四年にスタートする全国新酒鑑評会(醸造試験所主催)で輝かしい成績を収め、全国に銘醸地「廣島」の名を轟かすことになる。その後の賀茂鶴の成績はよく知られる通り比類のないものであった。

酒造業の二重性
 ここで明治期以降の酒造業の盛衰を確認しておきたい。
  先に述べた明治一〇年代の激動の後、清酒は明治二八年(四六四万石)まで順調に増えていく。その後大正初期まで四〇〇万石前後で低迷し、第一次世界大戦後の好況期にあたる大正八年に六一九万石を記録して戦前のピークを作る。以後は昭和初期の不況で減少し、戦時体制に至り激減する。
 マクロに見た場合、日本全体が工業化への道を突き進む中で、酒造業は十分な成長を遂げられなかったと言わねばならない。産業としての酒造業は、次第に相対的に地位を低下させる。明治七年の「府県物産表」で全工業生産額の一六%を占めた酒造業は、明治四二年九%、大正九年五%(「工業統計表」)という具合である。
 しかし、地域経済の視点で見ると酒造業は決して過去の産業ではなかった。大正一二年の廣島県の酒造業の生産額は二四八〇万円で全工業中第一位。二位の綿織物の一四六六万円を大きく引き離している(「廣島酒にかんする調査(大正一四年)」『広島県史』に収録)。おそらく多くの地方において酒造業は巨大な産業であり続けていたであろう。国全体としてはかつての基幹産業でありながら、地方においては郷土の経済を牽引する巨大産業という二重性を、酒造業はもっていたのである。ゆえに廣島酒のダイナミックな技術革新が可能であった。現在のシリコンバレーにも通じる人材の集中と技術交流が企業活動を活性化し、この時代の特徴である都市と農村、大企業と中小企業、バブルと貧困、洋風化と土着性などの二重性を消化吸収しようとしていた。

東京市場の変質
 当時から清酒の最大の消費地は東京であった。京都、廣島、秋田など各地に誕生した新興清酒産地の多くが東京市場を目指した。しかし東京市場は江戸期以来、灘酒が新川の下り酒問屋と結びついて独占していた。明治維新で各地から酒が流入してきても、場違い酒とされ明治末期頃まではいい商売はさせてもらえなかった。
 一方、灘酒は明治前期には東京向けの出荷が八割近かったが、明治末期には五割以下になる。畿内や他の府県に販路を拡大し、全国ブランド化を進めていった。灘の酒造家の間で優勝劣敗を繰り返しつつ、大規模な酒造家は力を蓄え(一営業人あたりの造石高は明治一七年一二七五石であったが、大正九年には四二七三石への急増「摂津灘五郷清酒造石高調査表」)、次第に下り酒問屋との力関係が変わっていく。問屋に有利な委託販売からメーカーが指し値をする動きが活発となり、自ら東京に進出して直売を始めたり、下り酒問屋以外の問屋との取引を拡大するのである。
 また、明治後半から昭和初期の東京市場の特徴のひとつは、新たに出現したサラリーマン層が裕福な飲み手として急増していたことである。伏見の大倉恒吉商店は、大正四年に防腐剤なしの瓶詰め清酒「名誉月桂冠」を発売し、洋酒問屋の明治屋と一手販売契約を結ぶ。この商品は、サラリーマン家庭の晩酌に急速に入り込み、後に清酒のトップメーカーとなる足場を固めていく。

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