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賀茂鶴 広島
清酒の高級ブランドはいかに作られたか
エリート層への浸透
−御社の歴史を紐解きますと明治後期から大正期にかけての動きは、月桂冠さんと共通するところが随所に見られます。どちらも酒造技術の革新に熱心でしたし、鑑評会などで数々の賞を受賞しておられます。それが方や裾野から頂上まで広くカバーするトップメーカーになり、方や上級市場に特化するメーカーになった。このあたりの違いについてはどうお考えですか。
石井 伏見も広島も当時は酒の後発地域ですから、灘と違うことをやるしかなかったわけです。品評会の成績は酒質のよさを訴えるために必要でした。その過程でどちらも酒造技術の革新の重要性が身に染みたのでしょう。
−月桂冠さんは防腐剤なしの瓶詰め清酒をいち早く売り出して、成功の基盤を固めていきますが、御社では瓶詰め清酒に取り組んだのはいつ頃だったのでしょうか。
石井 さあ、いつ頃かなあ。まあ、海軍の軍用酒に取り上げられてからでしょうね。明治の後半から昭和初期にかけてということになるかな。
 将校以上が飲む酒として取り上げられたので、この時に賀茂鶴を飲まれた方々が戦後ずいぶん贔屓にしてくださって酒名も上がったと思います。高度経済成長期に発展の屋台骨を支えたエリートたちが若い時に賀茂鶴を飲んでいた。そうそう、戦後、職域生協が盛んだった時期があって、ウチは日銀や八幡製鉄などの生協さんのお世話になりました。一流企業の社員に飲んでいただくいい機会になったと思います。
 そんな人々からの引き合いであちこちの高級料理屋さんに使っていただけるようになりました。今でも業務用がうちはかなり多いです。私が東京支店にいた頃(昭和三二年?五四年)は、一二月二八日に樽酒をもっていたのはウチと菊正宗さんくらいでしょう。業務用が多いと年がいよいよ押し詰っても樽がど うしても要るんです。

酒造技術の交流会
−しばしば御社は鑑評会などでの輝かしい成績が言われますが。
石井 品質を追いかけた結果、コンクールあらしみたいになったんだな。
 昭和二二年か二三年頃に、吟醸づくりをもう一度やろう、今やらなかったら絶えてしまうということで、うちに縁のある杜氏たちと勉強会を始めました。戦後、食べるにも事欠いていた時だから吟醸を造っても売れるわけないんだけど、技術を絶やしちゃったら取り返しがつかない。
 この勉強会は今も続いていて、日本酒造技術研究連盟なんて厳めしい名前になっています。毎年、春に、うちの蔵から出た杜氏たちが自分の酒を持ち寄って鑑評します。五〇名くらい集まって、酒づくりについて侃侃諤諤やるわけです。途中からあちこちの蔵元が参加させて欲しいということで、長野の真澄さんや新潟の吉乃川さんや朝日山さんなどもお越しになります。
 これをやって行くうちにだんだん賀茂鶴が杜氏の元締めみたいになっていきました。うちで頭をやって他の蔵に杜氏として行く。毎年、勉強会に参加するということになりますと、あちこちから腕のいい杜氏を紹介してくれという声がかかる。うちはそのなかから野球で言えば三割打てるような凄腕の杜氏を迎えます。料理人の世界で言えば吉兆で修行した板前が、最後は吉兆の花板で終わりたいというようなもんです。

吟醸酒の個性化の時代
 これからは吟醸の品格を失わずに個性を出すことが課題。吟醸は余計なものをどんどん落としてピュアにしていく造りだから、個性を出すこととは矛盾する。そのうえ、今は米は山田錦、酵母も共通でどんどん個性がなくなっている。それで今度、昔この辺りで作っていた船木雄町という米でやってみようかと
思っています。昔は、この米でずいぶん吟醸
を仕込んだもんです。その土地ごとの名品の米でやったら、どうにかなるかもしれませんから。
 山田錦に集中しているのはいい味が出ることもひとつですが、酒を造りやすいのも大きな理由です。八反錦なんかはそれに比べると造りにくい。遺伝子操作でやってしまえば米の改良も簡単なはずですが、どんな影響があるかわからないから安易にはやれない。
−エリート層への浸透や鑑評会での実績その背景にある技術研鑚の仕組みがあってこその上級酒への特化だったのですね。
石井 後発ですから灘がやらないことをしなければ売れないことははっきりしてたからねそれと身の程を考えて図体に合うようにしようという思いもあった。それで材料に金をかけていいものを売るというふうになった。
 東京市場で強大な力を持っていた新川の下り酒問屋が関東大震災で弱体化して、後発組もいろいろなことがやれるようになったことも大きい。

スタンダード価格の打破
 戦後、昭和三二年に柿右衛門の壷に入れた高級品を発売したんです。当時、壱万五阡円で売り出しましたが、酒の値段は公価で決まっていたから差額は全部容器代。
 それが酒税に従価税が持ち込まれる契機となりました(従価税は昭和三七年導入)。初めてのことだから国税庁も大あわてで、ウチも大蔵省の税制二課の筆頭補佐と討論をしたり、国税庁から税制の専門家を引き抜いたりして税制度を研究しました。当時は、酒造業界は今の銀行以上に行政と結びついていたんですよ。
−一般商品も常に高い値段を設定しておられたと思いますが。
石井 ああ、灘物より一〇円か二〇円ね(一頁・図表1)。値上げのたびに今度は灘はいくらだ、それじゃあうちは一〇円高くしようみたいなことをやっておりました。
 うちは一時、一級もなかったことがあるんですよ。特級AとBみたいなことをやっていた。昭和四二年にようやく自由になって、灘物にプラスいくらというのは止めて、かまわずに決めました。小売マージンは二五%、卸は一〇%として、蓋を開けてみたら一〇〇円高かった。最初は、それは恐かったですよ。でも、やってみたらどうということもなかった。まあ、よく言えば市場が見えていたんでしょうな。
 他より値段が高かったんで流通の方方からもクレームがでました。三越さんからは清酒の価格は一律でコンピュータの処理ができないから困るなんて言われました。でも、価格が自由になったんだからこれからどんどんそうなるって通させてもらって。
 そんなことをしていたら目立ってしまって高級品の賀茂鶴というのが定着して、そのあとで剣菱さんが同じような感じになった。地酒ブームの時はそれが裏目に出た。賀茂鶴が全国ブランドのように見られてしまいました。向かい風だったですね。
 私は、日付を切ったら酒も安くなって当然だと思っています。魚でもそうでしょう、味
が落ちたら安くなる。平気でそんなことを言うもんだから、よく「石井さん、あんたは過
激じゃ」とか言われましたけど。それが今は頭から安くなるんだから。こんなんじゃだめですよ。
 ずっと価格を維持するのが正しいと教えられてきたのに、今はまったく逆になってしまった。長年、この業界で商売してきた者はみな価値観が逆転してまいっているんじゃないですか。モラルが逆転して対応が難しい。新しい仕組みが定着するには時間がかかります。

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