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神亀 埼玉
先祖の思いを継ぐ「正しい」酒造り
『奈津の蔵』の背景
神亀酒造は、三代目に本家から養子を迎えてさらに経営基盤を磐石にすると、明治維新という大変動を乗り切り、小さいながらも埼玉に根付いた蔵元として酒造りをつづけていく。
蔵を危機が襲ったのは、昭和一二年のことである。この年七月七日、中国は北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突。いわゆる支那事変のきっかけとなったこの事件で、日本側は一一名の戦死者を出した。
この支那事変最初の戦死者のなかに、神亀酒造五代目当主が含まれていたのだ。こうして蔵の経営は、遺された五代目未亡人の細腕に託されることとなる。
さらにこの危機に追い討ちをかけたのが、戦時中の企業整備である。同社の規模では、どう考えても存続は不可能で、廃業か合併は避けられないものと思われた。この危機を救ったのは、不思議なことに、亡き五代目であるという。
「祖父が亡くなる直前、中隊を連れて偵察に出るときに、なんか胸さわぎがしたらしく、連隊長に『万一のことがあったら、酒屋だけはやめないですむように力添えを頼む』ということを言っていたらしいんです」(小川原専務)
この元連隊長の尽力で、神亀酒造は税務署から特例として存続が認められることになったのだ。もっとも、同じ春日部税務署管内の他の蔵元がこの話を聞き、それならうちもと談判して、結局は一一軒も残ることになったという。
さてこのエピソード、どこかで聞いたことはないだろうか。
そう、コミック誌「モーニング」(講談社)に昨年まで連載されていた尾瀬あきら作『奈津の蔵』の終わり頃に、似たような話が出てくる。
それもそのはず、このエピソードは小川原専務の祖母小川原くらさんが尾瀬氏にした話が元になっているのだ。もっとも『奈津の蔵』では亡くなったことになっている小川原専務の祖母は、いまも健在である。こうして戦中、戦後の危機を乗り切った同社は、六代目当主小川原正英現社長を新潟の本家から迎え、新たな時代に入った。ただ、蔵存続の危機はなんとか乗り切ったものの、米不足はつづき、酒造りに関してまだまだ厳しい状況は変わらなかった。そんな時代にあって、同社は悪戦苦闘し、浮き沈みを繰り返した。もちろん純米酒などは名称すらなく、アル添、三増が当たり前の
時代だった。
「一時は桶買いして、二〇〇〇石まで売ったこともありますし、逆に桶売りをしたこともあります。でも、桶買いも桶売りもどっちもつらい。買うときはやはり、できのいいものを選んで買いますし、売るときもできのいい大事な酒から持っていかれますからね(笑)」(小川原専務)

純米酒一〇〇%への挑戦
一方、昭和二一年に生まれ、幼い頃は酒屋を継ぐのがいやだったという小川原専務は、亡き祖父の思いを知って神亀酒造七代目を継ぐことを決意し、東京農大醸造科に進む。
小川原専務の酒造りの方向性を決めたのは、この大学に在学中、恩師がもらした「このままの酒造りをつづけていたら、ワインに取って代わられる」という一言だった。だとすれば、戦前の純米に戻るしかない……。小川原専務は役所に、米、麹と水だけで造る酒の醸造許可を求めた。
だが、ハードルは高い。米不足の時代にそんな贅沢な酒は、ということで初年度はあえなく却下。ようやくタンク一本の許可が出たのは、卒業する昭和四三年のことだ。
こうして、ひととおり純米酒の造りを会得して卒業した小川原専務は、神亀酒造に入るとすぐ、父である小川原社長に純米酒を造りたいと申し出る。父の言葉は「戦前はそれが当たり前だったんだから、昔と同じようにやればいい」というものだった。
「最初は、辛くてかっちりした酒なら、白ワインと渡り合えるかと、思いっきり辛口の酒を造りました。甘くするとキレが悪くなり、どうしてもアルコールを使いたくなるという理由もあります」(小川原専務)
日本酒度の平均がマイナス九度と大甘口が主流だった時代に、造った純米酒はプラス七度。なんと大辛口である。さすがに、まだ甘いとうまいが同じ意味を持っていた時代に、これでは売れない。
だが、一年目、二年目と売れなかったことがまた幸いした。
三年目に飲んでみると、ほどよく熟成し、ようやく買い手がついたのである。一年一代と喩えれば、最初の年は子、二年目で孫、三年目では曾孫だ。こうして同社の純米吟醸は「ひこ孫」と名づけられ、以降三年以上熟成させることに決められた。
こうして純米酒が軌道に乗りはじめると、やはり三増酒は物足りない。昭和四七年には思い切って、これをやめた。やめたのは、酒質というより価格やリベートに左右される三増酒の取り引きに嫌気がさしたという面も大きいらしい。
さらに昭和六二年、本醸造も造るのをやめて、ついに純米酒一本とすることを選択した。

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