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オーナー杜氏の誕生の軌跡
杜氏集団による酒づくりが、高齢化と産業構造の変化によって、大きく揺らいでいる。対応策のひとつに社長自らが杜氏となる事例がある。今回は南部杜氏のさと岩手県紫波町で、社長兼杜氏として活躍する横沢大造社長(月の輪酒造店・会員)を訪ねた。

生まれたときから酒蔵の中で育ってきました
−月の輪酒造店のあらましを教えてください。
「わたしで四代目になりまして、酒づくりは明治19年創業です。年間生産量は170リットル。そのうち特定名称酒は70%でしょうか。社長を引き受けた昭和55年には普通酒が90%以上でした。切り替えがうまくできたのは、まあ売れない酒屋でしたからやりやすかったということでしょうか。従業員は、わたしと家内のほか、今年から娘も戦力となりましたが、季節の蔵人5人を入れて15人です」
−このあたりは南部杜氏の本場だそうですが…。
「そうです、石鳥谷町からここ紫波町が南部杜氏の発祥の地です。杜氏、蔵人というのは農家の農閑期の現金収入の道でして、農閑期に出稼ぎに出ていたわけです。いまは農閑期がありませんし、昔のスタイルはもう不可能になっています。
南部杜氏、蔵人は1600人ほど。そのうち杜氏として働いているのは400人くらいでしょうか。杜氏になるには、南部杜氏組合の資格が必要です」
横沢さんは、昭和17年生まれ。国学院大学の経済学部卒業という異色である。
経済学部出身の杜氏さんというのは、相当に珍しいのではないでしょうか。
「生まれた時から酒蔵の中で育ってきました。時期になると杜氏さんがやってきて酒をつくり、時期になると帰っていく。その繰り返しの中で育ってきましたから、そのことに何の疑問ももちませんでしたね。酒屋は杜氏が酒をつくるものだと思っていました。
親父は酒づくりには通じていまして、酒は俺が見る、おまえは酒を売れ、ということできました。ですから、大学を出てからも酒問屋の国分で酒を売る仕事をしてきました」

この酒でなければという酒をつくろう
−社長兼杜氏ということですが、社長業のほうが先なんですよね。
「昭和55年に親父を亡くしまして社長になったわけですが、親父の頃は酒はつくれば何でも売れた時代でした。ところが、わたしが引き継いだ頃には酒がまったく売れなくなりまして、100リットルまで落ち込みました。
打つ手がわからないまま親父に死なれて、さてどうしようかということで当時の杜氏に相談しまして、いくら金がかかってもいいから、なんとかして「この酒でなければならないという酒」をつくろうという方針を固めたんです。
ですが、当時は特級、一級、二級の時代で、大手メーカーの酒も月の輪も同じ値段です。味というものがあまり重視されない時代でした。そんな時に独特の味わいの酒を独自の価格帯で売るのはなかなかの冒険でした。
が、初めてつくった本醸造がたいへん好評で、タンク一本を二ケ月ほどで売り切ってしまいました。うまいということで売れたのです。いいものをつくれば売れるのか、というくだらない基本的なことをはじめて知ったんです。そのうちに、地方のいい酒を探すというムードが出てまいりまして、問屋にいた時の同僚がおまえの酒を売ってやると言ってくれました」

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