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キリンビールとコカ・コーラ
写真 戦後も昭和30年代に入ると、明治以来の歴史を持つキリンビールの販売が急成長する。日本経済の高度成長と軌を一にしてビールの需要が急増し、なかでもキリンビールは、昭和30年からの10年間で、37%から45%までシェアを上昇させ、独走体制を築いていった。その「ビールといえばキリン」という時代の波に乗り、同社のビール卸部門も大きく成長していく。
さらに昭和37年、2代目稲垣小太郎社長は、その起業家精神の象徴ともいえる大胆な決断をした。
この年同社は、北陸コカ・コーラボトリング株式会社を設立したのである。全国的にみても、コカ・コーラボトラーの母体企業としては小粒だが、地元ならびに地域の協力が得られた。
決断を後押ししたのは、同郷の正力松太郎読売新聞社社主だったという。
「義父が正力さんに『コカ・コーラの事業をはじめたいけれど、どう思われますか』と相談に行ったら、最初正力さんは『なんか、ちょっと薬臭いようなものらしいぞ』と(笑)。事実、そういう話はけっこうたくさんありました。ところが後で電話がかかってきて、『いまアメリカでいいらしいから、あなたやってみたら』と」(稲垣社長)
こうして、同社が中心となって、北陸三県をテリトリーとする北陸コカ・コーラボトリングが設立されることとなった。その後のコカ・コーラ事業の隆盛は、あえて記すまでもないだろう。こうして同社は高度成長期に大きく躍進していった。
しかし、昭和50年から清酒の需要は減少に転じるが、他の部門が好調だったため打つ手が遅れたのは否めない。大消費地の首都圏への進出は、昭和30年に東京・千駄木に出張所を開設するなど、取り組みは早かったが、当時は灘伏見の大手隆盛の時代で、地方酒の参入には時期尚早であり、充分な成果は得られなかった。昭和40年代までは富山県トップ、北陸でも1、2を争う生産量を誇り、現在でも地元では、「銀盤」「立山」と並んで御三家の一角を占めているが、全国的な知名度では、やや劣っているのは、そのためもある。

量から質への転換
規制緩和が進むなかで、酒類卸業務を取り巻く環境は、一段と厳しさを増している。言いかえれば、よほどの規模がないと利益の出ない産業になりつつあるのだ。なかでもビール卸業界は、その競争激化でさらに厳しい状況に置かれている。
平成10年に社長を退いた稲垣孝二氏は、社内報に「若鶴酒造に関する覚書」と題してその間の事情をこう記している。
「今日、当社はいちはやく3倍醸造を廃止し、品質向上に精進して来たが、ビールの量的販売を追求する余り、経費の増大を招き、収益の悪化につながった。本来品質向上と量的販売は共存するものではなく、体制を一新するために永年の社長職を辞任した」
跡を継いだ4代目稲垣忠一社長にとっては、このビール卸事業の不振を原因とした体質からの脱却と、酒造部門の立て直しがまず課題となったのは当然である。そこで稲垣社長が下した決断は、明治以来の永い歴史を持つビール卸事業からの撤退であった。売上こそ上がるものの利益の出ない事業を切り離すことで、本業の清酒メーカーとして再生を図ろうというのだ。

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